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より正しい物語を得た音楽はより幸せである
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「だから森下唯っていう人の書いたその記事を全文読んで欲しいんだけどさ、そんなこと言っても読みゃしないでしょ、だから説明するよ。ある音楽関係者がね、去年のNHKスペシャルをきっかけに全盲の天才作曲家を知り興味を持って、ネットで検索してプロフィールやらを読み、曲の断片を動画で視聴したと。そして強い違和感を感じた、と」

「プロフィールによると、聴覚を失った後に真実の音に目覚め、それまでの楽曲を全て破棄した元ロック・ミュージシャンが、常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って書いた曲、ということになっており。

あの、アマチュアだからこそ出せる不可思議な凄みってあるじゃない。アンリ・ルソーとか山下清とか田中康夫とかスリッツとかダモ鈴木とか。そういうタイプかと思って聞いてみると、ものすごく正統派の音楽教育を受けたことが明らかな、ものすごく王道の、繊細な、丁寧な、知性を感じさせるクラシックなんだって。だからすぐ、あ、これはインチキ野郎だ、商売の為にプロフィール詐称してやがる、売る気満々で書かれた、嘘にまみれた、いやらしい音楽だ、と思ったんだって」

「だけどインチキ野郎にしてはよくできてる、と。「丹精込めて仕上げられた」ものに聞こえると。真摯に音楽に向かわずしてこれが生み出せるとしたら凄い才能だと。悔しいが認めざるを得ないと。その、インチキと真摯のギャップが、不思議だったんだって」

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「でね、クラシック業界ではまともな人はもう、感動的な交響曲とか書かないんだって。古臭いから。映画やゲームや大河ドラマから「発注」された時以外は。まともな志のある作曲家は全員がいわゆる「現代音楽」なの。今回名乗り出た人もそうなんだって。まともな作曲家はまともな音楽を書かないで実験音楽ばかりやってるという、ちょっと何だかなー、という妙な状況があるんだってさ。ケージ以降。伊東乾は「それが当然だし、それでいい」と思ってるらしいけど、森下唯は「現代のクラシック業界の停滞」と感じてるらしいわけ。なんで小説や漫画や映画はそうなってないのにクラシックだけがそうなるのかは書いてなかったから知らないけど」

「それで今回のニュースを聞いて、ものすごく腑に落ちたと。新垣隆という真摯な作曲家が、時代錯誤な誇大妄想を持つ自己顕示野郎の「発注」で、こう、神秘的な感じでふわーっと始まって、クライマックスではズガガーンと雷が落ちて、余韻を残して終わるみたいなヤツが欲しいんだよ、聴衆を熱狂させるみたいなさあ、そういうのが今の時代にこそ必要なんだよと熱く迫られて、それに本気で応えて書いた曲だったのかと。なるほど、と。「中世宗教音楽的な抽象美の追求」「 上昇してゆく音楽」「祈り(救いを求め)」「啓示(真理への導き)」とかなんとか」

「ジャズミュージシャンがさ、テレビ局の知り合いに頼まれて仕方なく氷川きよしのバックで演奏してみたら意外にもすごく楽しくて達成感があった、みたいな」

「だから、佐村河内守はインチキ野郎かも知れないけど、佐村河内守という人間の暑苦しい思いがなかったら、あれらの曲は決して生まれてないわけで、だから「作曲者」は詐称だったとしても、ある意味で作者なのは間違いない、と」

個人的には、こういうプロデューサーつきのスタイル、現代のクラシック業界の停滞を吹き飛ばすひとつの手段として広まっても良いんではないかとさえ思える。制約があってこそ、その枠内で創意工夫を凝らして良いものができることだってある。

佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという、この特異な状況下でしか生まれ得なかったあれら一連の楽曲とその魅力を、「全聾の作曲家が轟音の中で」云々よりよほど真実に近いだろうこの(小説より奇なる)物語とともに味わい、よりよく理解し、より正しく評価すること。それが、取りうる最も適切な態度ではないかと思う。

佐村河内氏の詐欺行為は断罪されるべきことだろう。しかし、週刊誌記事などを読む限り、「凄い曲を世の中に出してやろう」という強い意思だけは本物であったのだ、と感じられる。記者会見で新垣氏が述べた言葉が印象に残っている。その言葉だけで、この事件は悪いことばかりではなかったんだと思えた。彼はこう語っていた。

「彼の情熱と私の情熱が、非常に共感しあえた時というのはあったと思っています」

by nobiox | 2014-02-07 20:18 | ├自分用メモ |
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