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議論とは「話し合って決める」ことではないだろう。議論とは「説得」でもない。
ちきりんさんのブログは好きで、けっこう読む。読むとたいてい感心する。知識も知恵も僕よりはるか上の人であるのは間違いない。だけどたまに「え?」と思うこともある。

去年7月のエントリーに「電力不足はエネルギー不足を意味しない」「電力不足解消のために化石燃料か自然エネルギーかそれとも原発再稼働かという議論は、環境(CO2)問題にとって中心的課題ではない」というのがあったけど、「え?」と思った。エネルギー不足を意味しようがしまいが、環境問題にとって中心的課題であろうがなかろうが、電力不足が困った問題であることに変わりはないし、ついでに言うと環境問題の中心的課題はCO2である、というのはそれほどまでに自明なのか。まあいいか。

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ごく最近"「話し合って決める」という幻想" という記事があって、こういうことが書いてあった。
ちきりんはネット上で議論をしません。ブログで、トラックバックを使って他の方の主張に議論をふっかけることもないし、ふっかけられた議論を受けることもほとんどないです。私のブログは、私の考えたこと(思考、主張)を広く開示しているだけのものです。ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。ネット上で議論をしない最大の理由は「非効率だから」です。別の言い方では「時間の無駄だから」
リアルの社会でも私はそんなに議論をしません。(他者の意見を聞くのは大好きだし、自分の意見を言うのも好きです。議論をしないだけです。)その理由は、「議論する意味がないから」です。いったい「議論する意味」はどこにあるのでしょう? 合意すること? 意見をまとめること?
時々、「多様性を尊重すると言っているのに、なぜ議論に応じないのか?」と言われますが、反対です。多様性を尊重したいからこそ、議論しないのです。議論して、どっちかがどっちかを説得するなんて無意味でしょ? せっかく二つの異なる意見があるのに、なんでわざわざ時間を掛けて「ひとつの意見」だけにしてしまう必要があるんでしょう?
「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。
フェアな議論とか言われているものは、「どっちかだけが諦めるのは不公平なので、双方の諦める量を同じにしよう」というルールに過ぎません。双方が半分ずつ諦めて「足して二で割る」とか、双方が全部諦めて、第三者の意見を採用する、というのがその事例です。「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。みんな、自分の好き勝手なことを言っていればいいんです。

おもしろいけど、極端なこと言うなー。「他者の意見を聞くのは大好きで、自分の意見を言うのも好き。議論をしないだけ」とあるけど、「他者の意見を聞き、自分の意見を言い、互いに考える」のがまさに「議論」なんじゃないの? おおざっぱに言って、議論とは特定の課題について「話し合う」ことだ。「話し合って決める」ことではない。合意するとか意見をまとめるとかどっちかが諦めるとかは、必要な場合に議論の後でやればいいことで、議論そのものではない。

「エネルギー不足にとって中心的課題でないから、電力不足は大した問題じゃない」みたいな論法と、「決着をつけるのは不毛だから、議論はしない」というのはどこか似てるような気がするが、気のせいかも知れない。とにかく、議論そのものではない要素を理由にして「議論は無意味だ」というのは飛躍があり過ぎる。なるほど「決を採る」ことは多様性を阻害するかも知れないが、議論が多様性を阻害するなんてことはあり得ない。

フェアな議論とか言われているものは、「どっちかだけが諦めるのは不公平なので、双方の諦める量を同じにしよう」というルールに過ぎません。双方が半分ずつ諦めて「足して二で割る」とか、双方が全部諦めて、第三者の意見を採用する、というのがその事例です。

これは嘘じゃないかなー。双方が半分ずつ諦めた決着が世間で「フェアな議論」と呼ばれた実例が、あるだろうか。ないと思う。相手の顔色を伺い、腹を探り、落としどころを見いだすことを「成熟した大人の交渉術」と呼ぶことはあるだろうけど、「フェア」とは言わないでしょう、ふつう。どちらかと言えば、顔色を伺わず腹を探らず落としどころを気にしない態度を「フェア」と呼ぶのではないか。

いったい「議論する意味」はどこにあるのか、ということだが、もちろん、議論する意味はいろいろとある。いろいろあるけど一言で言うと、「考えを深める」ことだ。当たり前じゃないか。ついでに言うと「こんなこと勉強して何の役に立つの、と子供に聞かれたときになんと答えるべきか」について意見を表明するのが数ヶ月前にブログ界やツイッター界で流行ってたけど、みんな何を言ってるんだ。子供に(大人でもいい)勉強させる目的なんて、決まってるじゃないか。アタマを良くするためだ。体力つけるために駆けっこさせたりするのと同じことだ。大人になって駆けっこや幅跳びの技能が役に立つことは少なく、高飛びはさらに少ない。だからと言って子供に駆けっこや幅跳びや高跳びを教えるのが、無意味ってことはないだろう。

「『朝まで生テレビ』の出演者が他人の意見に説得されて、なるほど、あんたが正しい、オレは考え変えるわ、となるのを見たことがない。奴らは1ミリたりとも自分の意見を変える気はない。したがって考えが深まったりもしない。つまり議論なんて不毛だ」と言う人がいるけど、それは違う。仮に出演者が全員そうだとしても、聞いてる視聴者の中には「考えを深めたくて聞いてる」人がいるはずで、実際に考えを深めることはあるはずだ。というか、僕はある。あった、ような気がする。ほう、お前さんの深まったご意見とやらをお聞かせ願おうか、とか言われると困るけど。

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要するにですね、言いたいのは、会話はだいじだということです。「意見のキャッチボール」というか。「話し合えば相手も自分の意見と同じになるはず、などと思うのは傲慢」という理由で意見のキャッチボールを避けるのは、いいこととは思えないし、会話を試みるからといって、話し合えば相手も自分の意見と同じになるはず、などとは思っていない。これは別にちきりんさんが意見のキャッチボールを避けてる、という意味ではないんだけど、トラックバック機能を無効にしておられるのは、避けているということなのかも知れない。

ある日、Aという人のブログの、あるエントリーを読み、感心して「なるほど」と思ったとする。翌日、どなたか別の人Bが「Aがまたアホなことを書いてるのでサクッと批判しとく」という書き出しで、対立する意見を書いてたとする。それを読んで、「おお、なるほど」と思ったとする。そういうこと、僕はしょっちゅうあるんですよ。あっちへふらふらこっちへふらふら、定見が定まらないというか。そういうときにね、もしもBさんの意見が目に止まったら、Aさんには反応して欲しいわけ。反応が義務だとは言わないが、反応して欲しい。「なるほど」でも「それは違うだろ」でも「それはそれで正しい見方だと思うけど、そうだとしてもきのうのエントリーが間違いだということにはならない、何故なら……」でも、なんでもいい。「話し合えば相手も自分の意見と同じになるはず、などと思うのは傲慢」という理由で意見のキャッチボールを避けるとしたら、いいことではないと思う。

A「オレは弱者の味方」
B「Aはバカ。オレは天皇陛下万歳」

……こういうのは別にいいですよ。これ以上対話する意味ないから。そうじゃなくて、

A「普通自動車はどんどん売れなくなっているのに、軽自動車の販売台数は(車離れが言われる今でも)伸び続けています」
B「とんだでたらめである。全然増えてない」

……例えばこういうのとか。これが

A「オレは自動車情報センターが毎年6月に出す販売レポートを根拠に言ってんだよ」
B「アホか、日本自動車販売協会連合会のランキングに基づかないと意味ないんだよ、何故なら……」

などという具合に続けば、ギャラリーも軽自動車について考えを深めることだろう。たぶん。

(ツイッターという)140字という制限があるツールは議論をするのに向いてないし、議論の重要な前提となるべき過去の発言もどんどん流れていってしまいます。そしてなにより、議論の相手のことが全くわかりません。もしかすると相手は小学生かもしれないのです(いろんな意味で)。

言いたいことはもうひとつあって、それは、相手がどういう人かとは全く無関係に議論はできる、ということだ。酒を酌み交わし肩を組み、自分と相手の全人間力を比べっくらして優劣を競うのもたしかに議論の一形態かも知れないが、経験則で言えば、そういう議論観を持ってる人との議論はまさに時間の無駄である。ことが多い。そういう議論観がダメなのか、「そういう議論観と僕の議論観との組み合わせ」がダメなのか、どっちかは知らないが。

僕も、人とはできるだけ議論しないように心がけている。その点ではちきりんさんと同じだ。僕の議論観では、議論の相手は人ではなく、「自分のとは違う意見」である。議論の主な目的は勝利や説得や懐柔や擦り合わせではなく、考えることだ。「批判されたので自分の正しさを証明するべく躍起になる」のは愚かだけど、同様に「批判されたが無視する(反応を控える)」も、いいこととは思えない。

人の意見を批判するときに、人の人格を攻撃しないように注意しよう、と思う。簡単だ。心がけさえすれば、すぐ、誰にでもできる。むずかしいのは「人に意見を批判されたときに、人格を攻撃されたと受け取らないこと」で、これはねえ、いくら心がけても簡単ではない。ないが、そう心がけたいと、思います。なんか関係ないこと書いてるだろうか、オレ。
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by nobiox | 2012-08-20 18:58 | ├自分用メモ |
「 インビクタス / 負けざる者たち」(2009年アメリカ/132分)
★★★★★………感動しました。

ラグビーの南ア代表チームが強くなり、自国開催のW杯で奇跡の優勝を遂げた、という実話の映画化。しかし強くなった理由は「その気になる」「その気にさせる」のみで、それ以上の具体的な強化策はいっさい描かれない。究極の精神論。それを物足りないと思う人は多いかも。

監督クリント・イーストウッド当時79歳が全体を通して描くのは、「魔法のチカラ」だ。ネルソン・マンデラが、チームに魔法をかける。まずキャプテンと面会し、「頑張って」と励ます。フィクションだったらこんなこと、思いついても書けませんよ。恥ずかしくて。だけどいいんです。実話なんだから。

現実の面会では「頑張ってくれ」的なことも言っただろう。けど映画の中では、はっきり言わない。ただ、27年に及ぶ獄中生活で私を支えたのは、ある詩句だった、という話をする。困難に立ち向かうとき、歌が大きな力になる、この国は今、それを必要としている、とか語る。それだけ。ポエムだの歌だの、屁の役にも立たない、無力なものだ。だがそういうものが時として、チカラをくれる。大きな困難に立ち向かうときこそ、それが必要だ。だからこそ今、この国には君たちが必要なんだ、と。

その後もマンデラは、あの手この手でチームに魔法をかける。はぁ? そんなんで効いちゃうわけ? というのばかりだが、説得力がある。何故なら激動時だからだ。白人支配が崩れ、「富裕層の象徴だったお前らなんか全員投獄な」という可能性すら、もしかしたらあったチームを、その黒人大統領が、力になってくれと励ます。それが魔法となって、チームを動かし、人種の壁を崩す。最後には最強の敵を倒すために、声を揃えて新国歌まで歌う。それがチカラになる。強化の具体的な理由がないからこそ、魔法のチカラの魔法性が際立ち、感動的だ。

もしかするとこれは、「映画って何かの役に立つの?」という問いに対するイーストウッドなりの回答、なのかも知れない。屁の役にも立たない無力なものの効能を説得力を持って描いた作品として、漫画とか音楽とかデザインとかスポーツとか手品とか映画とかの「虚業」で食ってる人が観ると、特に感動すると思う。
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by nobiox | 2012-08-16 14:45 | ├映画 |
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