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「紀子の食卓」
監督:園子温 / 出演:吹石一恵, 吉高由里子, つぐみ, 手塚とおる / 2006年
★……………最低。さっぱりわからん

Wikipediaの「園子温」の項にはこう書いてある。「17歳で詩人として「現代詩手帖」「ユリイカ」等に投稿し、「ジーパンを履いた朔太郎」と評される。1987年、『男の花道』でぴあフィルムフェスティバルグランプリを受賞。PFFスカラシップとして制作された『自転車吐息』がベルリン国際映画祭で正式招待作品となるなど、90年代にはインディーズ系映画界を席巻。荒木経惟、麿赤児、吉本ばなな、横尾忠則、荒川真一郎など、絶賛した著名人、関わりのある著名人多数」「毎回映像実験的な表現を貫き、同時に社会や人間を鋭く抉るメッセージ性や、非常に明晰で大胆、かつ哲学的でさえあるコンストラクチャーが特徴で、同時に詩的飛躍とも呼べる感覚的、直接的な映像と演出などを行い、矢継ぎ早に作品を発表している」

「コンストラクチャー」とは「質感」のことかと思ったが、それは「テクスチャ」だった。「コンストラクチャー」とは何か知らないが、「構造」という意味かも知れない。しかしそうだとすると「哲学的でさえある構造が特徴」ということか。意味がわからんけど。

「紀子の食卓」は「自殺サークル」の後日譚にあたり、社会や人間を鋭く抉るメッセージ性をもつ代表作で、第40回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭特別表彰、国際シネマクラブ連盟ドンキホーテ賞を受賞したそうだ。「あなたはあなたの関係者ですか?」という台詞が何度も繰り返される。なるほど「哲学的でさえあるメッセージ性」か。しかしざんねんながらオレにはこの質問の意味がわからんし、この映画のどこが素晴らしいのかもさっぱりわからない。だって出演者のモノローグで心理とストーリーの説明するんですよ。出だしだけかと思って我慢してたら、なんと、全編にわたって。しかし Amazon のユーザーレビューを読むと、それだって必ずしも欠点ではないらしい(以下の引用は当方の要約)。

淡々としたナレーションと落ち着いた音楽に包まれて進む詩的な世界に引き込まれる。人間の本来ある本質を描き、衝撃を受け心に残った。
空気感映像がとても綺麗で、ナレーションが心地良い。吉高由里子、この人は注目です断然存在感。

なるほど。淡々としたナレーションが心地よい、か。一人称ナレーションスタイルが「登場人物それぞれの」「自己喪失感を上手く表現している」と書いてあるBlog も見かけた。言われてみるとそんな気もする。吉岡秀隆ふうな内省的ナレーション、というか。モノローグというのは吉岡秀隆でなくても、誰がやっても内省的な感じになるのかも知れない。そういや高嶋政伸の「姉さん、事件です…」だって内省的に聞こえるもんな。Amazonには他にも熱い賛辞が並んでいる。以下の引用はすべて当方の勝手な要約。

誰もが役割を演じている。主題に目新しさは無いが、注目すべきは園監督のアプローチの仕方。暴力的に嘘を見抜き、切り裂いていく。血まみれ、怒鳴りあい、泣き喚く。その先にあるのは光。
過剰な演技、過剰なディテール、過剰な主題。この過剰さが本当に心地いい。主演4人の過剰さが潔く、カッコよく、グイグイ惹きつけられる。「役割」とは何か、役割から離れた「本当の自分」なんてものがはたしてあるのか。過剰な混沌をたたきつけられる傑作。
面白いッ!159分の長さを感じさせないすごい完成度。真実と虚構のてんびんを激しく揺らしながら進行する物語に目がくらむ。感性と構成力に驚かされっぱなし。クライマックスの圧倒的な迫力。こんなスリルは初めて。今どきの日本人のリアルな姿。
残酷に見える映像はコメディーにも見えるし、何か試されてるようでもある。「よくわからない何か」が分かるきっかけに繋がる映画。内面をじっくり抉られて、しっかり立たされたような素晴らしい作品。
自殺サークルを観てガッカリしていたが、この作品は人間の内側を繊細な言葉で表現していて凄い。素晴らしい。意味不明な言葉が多く出てくるが、じっくり聞くとシッカリと意味がある。
家族や人格の「入れ替え可能」の象徴としてのレンタル家族。入れ替え可能ゆえに、例えば集団自殺をし、例えば殺されることをも甘受する。誰が死のうが、何が起きようが変わらない「終わりなき日常」。血みどろの惨劇は夢か現か。夜明け前、ユカはひとり東京の街へ消える。家族の「入れ替え不能性」が夢物語でしかないことを思い知らされる瞬間だ。
女子高生の危うい状態が描がかれ、彼女達が理解できなかったりもするが、それも含めて見ごたえあり。2時間半の長丁場だが飽きない。合う人には合う物語。
自殺サークルを理解出来ず反感を持った方に特に、この作品を見て、もう一度自殺サークルのメッセージを感じて欲しい。本当に何も難しいことはない。気付くか、気付かないか。描かれている事は、単純に致命的なこと。
人を殺してはいけないとか、自殺する人間は愚か者のすることだとか、血と血で繋がっている家族の絆は、何者も壊すことができないとか、今まで当たり前のように思ってきたことが、もろくも崩れそうになる。見終わったとき体が硬直し、すぐに席を立つことができなかった。誰かと語り合いたい、と思う一方、この映画の世界観に深く入り込むと大変なことになると感じる自分もいる。それほど強力なパワーを持った映画。
変わらない日々に苛立つ紀子は、家出して、上野駅54と出会い、自分自身を捨て去り、役割を演じる中で、時には殺される事すら自然な事として受け入れてしまう。そのあまりにも軽い自意識をどう評価していいか分からない。映画館であまりの衝撃に暫く呆然として、今回発売されたDVDを再度見たが、こんな凄い映画は他に見た事がない。いつか歴史的名作とされる日が来るのではないかと思う。誰もが役割を演じて生きている。確かにそれは事実だけれど、ほんの少し角度を変えればこういう事だろと言われると、返す言葉が見つからない。
青春期特有の否定性のままに、此処ではないどこかを求めて家出する紀子。模擬家族を演じていくことで否定性から見かけ上の肯定へ。妹ユカ(吉高由里子すごい!冷ややかな美貌!あの目つき!)もまた姉の足跡を追い、ノートを残して家を出る(ノートをとってる彼女の姿が、教室、プールサイド、街頭、と美しいシーンの連続)。
父・徹三の章からラストまで一分の隙もないスリル、自殺サークルの意味が初めて具体的に語られる古屋兎丸の怪演。父娘再会の場に集中する役者全員の気迫。嗚咽しながら妹が言う「・・・みんなライオンに見えるの。・・・ウサギに戻ろうよ」この言葉で四人の中の何かが終わる。ミツコは紀子に戻り、徹三は生まれ変わって、娘にとって良き父親たろうと既にまた演じ始めている。ひとり目覚めている妹だけが、再び始まる虚構の虚しさを断ち切って、もう一度、今度は本気で家を出てゆく・・・。 癒しとしての家族性の確認(ノスタルジー)とその家族性からの全き解放の夢を同時に見せるラストまで、全カットに無駄がない、必然性を感じる映画。娯楽を越えた、一から十まで「本気」の映画。

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グイグイ惹きつけられるとか、すごい完成度だとか、人間の内側を繊細な言葉で表現だとか、強力なパワーだとか、美しいシーンの連続だとか、一分の隙もないスリルだとか、全カットに無駄がないとか、ざんねんながらどこがそんなにそうなのかわからないオレは負け組だ。くやしい。「クライマックスの圧倒的な迫力」というのがどのシーンのことなのか、それすらわからない。ナイフを振り回すシーンのことか?

私としてはナイフを振り回すシーンにはとりわけがっかりしました。だってさー、ナイフを振り回すたびに「ビュッ」とか「ブヒョッ」とかいう効果音がつくんですよ。通り一遍じゃない、ルーティーンを拒否した、お約束を拒否してリアリティに迫る、清新な感覚で真実に迫りたいです、という、そういう映画かと思って見てたのよ、いちおう。そしたらナイフを振り回すたびに「ビュッ」とか「ブヒョッ」だってさ。バカみたい。あんなお約束的な効果音がなんのために必要なのか理解できない。

まあ後から思えば、例えば「大量跳び込み自殺でホームと列車の隙間から血がピュー」の時点でそういう傾向 (キルビル好き?)に気付かなかった私がアホだったような気もするが。そういえば雨宮「リストカッター」処凛さんが絶賛しておられる。それは理解できる気がする。なんとなくだが。

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内容はともかく、これは吉高由里子の映画デビュー作らしい。とにかく吉高由里子の映画デビュー作を観れたことには満足。すでに非凡である。ここでのしゃべり方は小倉優子的とでもいうか、そういうふうに演じているのかこの当時の地なのかわからないが(まあ怪物的な天才役者に「地」なんてものはないのだと思うが)、とにかくしゃべり方がとっても甘い。ちょっとイラッと来るぐらいに甘い。広末涼子二世のようなイメージ。見た目は夏帆にも似ている。三井のリハウスのCMが似合いそう。広末涼子も夏帆も格別凄いと思わない(すごく可愛いとは思うが)自分としてはちょっと意外だった。しかし、YouTube で吉高由里子のインタビューとか記者会見とかを何本も見たけど、どれも驚くほど魅力ない。なぜ演技してるときだけあれほど神がかって見えるのだろうか。

きのう「ねぎぼうず」で久々にみのすけを見たと思ったら、きょうはこの映画で手塚トヲルを見た。怪物・吉高由里子目当てに見たわけだが、そう言えばかつて劇団健康の舞台で見たみのすけも、手塚トヲルも、とてつもない怪物に見えたなー。今はどちらも年をとって、ちょっと太って、ふつうに「味のある役者」に見えた。それはそれでちょっとイイ。

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TSUTAYAのレンタルが一週間だったので、6日おいてもう一度観た。ナレーション進行に耐性ができてたおかげなのか、一度目よりははるかに楽しめた。劇中の長台詞:
「自殺クラブなんて存在しません。あなた方の無関心と、好奇心が、自殺クラブを生んだのです。強いて言えばですね、自殺サークル、と言うべきなのでしょう。それは『輪』なんです」
「(輪?)」
「とりあえず、かつて、コインロッカーで生まれた、天照大神がいたと思ってください。現代の天の岩戸は、ひび割れた裂け目は、東京の上野駅のコインロッカーナンバー54から始まったのです。彼女が経営されているのが、コーポレーションICという、レンタル家族の会社です。客のお呼びがかかると、出張してそこの家族になり、一日を過ごす仕事です。それが、皆様の要望で年々、家族として一年、ややもすると十年も二十年も一緒に過ごすような、大きな仕事も請け負うようになりました。表向きは、ヘルス器具の販売会社だったり、車のレンタル会社だったりする子会社も含めて、いくつかの企業も育っています。そういうことでよろしいでしょうか」

「秘密など我々にはありません。お尋ねのことは、すべて話しました。今や、あなた以外の人はみな、役割に目醒めつつあります。徹郎さん、わかってますか。あなたは、たしかに、一生懸命私たちをリサーチした。よく知っています。わかっています。それで、何がわかりましたか。あなたは、あなたの役割を記者にしてきました。だけどもう、怖がることはありません。あなたはもう解放されたのです。自分の役割に目醒めるときが来たのです。あなたは誰ですか。あなたは先ほど自分自身に関係していると言いましたね。だがどうでしょう。あなたはとてもびくびくしていて、記者を演じているとは言えません。父を演じているとも言えません。現実の社会は、あまりにも過酷で、父や、母や、子供や、妻や、夫を演じるには、人々は疲れ果てて、表裏が複雑でしっくりといきません。ここではすべてが嘘で、表も、裏もありません。むしろ、全面的に虚構を突き進むこと、それで初めて自分と出会えるのです。砂漠を感じるのです。孤独を感じるのです。実感するのです。確固たる砂漠で生き抜くこと、それが、役割です。(場内に満ちる拍手)
うーむ、「全面的に虚構を突き進むと、初めて自分と出会える」・・・やっぱりわからん。あまりに凡庸な感想で申し訳ないが、虚構を突き進むとふつう生の実感は薄くなるんじゃなかろうか。ただ、音楽がセンスいいなー、と気付きました。台詞抜きのサントラとかあったら欲しいぐらい。

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映画や漫画やテレビドラマや小説には、価値観提示型、とでも呼ぶべきものがある。と、思う。例えば「ねぎぼうず」もそうだ。

27歳の平凡な人妻よう子が、探偵を名乗る見知らぬ男に呼び止められる。男は、2年前に出会い系サイトを介してよう子と出会い関係をもった○○さんの依頼で彼女を探していて、ついに見つけたのだという。○○さんはあなたのことが忘れられなくて、どうしてももう一度、あなたとしたいそうですよ。

2年前。

当時、たしかによう子は寂しさから出合い系にハマり、その場限りの性交を日々繰り返していた。それは現在のよう子にとって「なかったこと」にしたい過去である。○○なんて名前もいっさい記憶にない。そんな、おかしいじゃないですか。そんな出会いで、お互い名前も知らずに抱き合っただけで、その○○さんは、私の何をわかったって言うんですか。

正論のように聞こえるが、しかし探偵は平然と反問する。そうでしょうか。本名と職業と現住所と出身地を知り合い、食べ物の好みと芸能人の好みと映画や音楽の好みを知り合う、そういうところから始まるのもアリでしょう。だけど、体の相性とか、性癖とか、肌の湿り具合とか、そのときの表情とか、そういうところから入るのも、それはそれで却って真実なんじゃないですか。今のあなたのご主人は、あなたのそういう面を、果たして深くご存知なんですか。そう反問する。そういう価値観を、提示、する、のである。

そう言われて、この探偵の言ってることがイコール作者の言いたいことなんだな、と思うほど、観客はナイーブではないにしても、ただ、ここで作者はそういう価値観を提示してみたいんだな、くらいは思う。だから、その作品に共感できるかどうかは、その価値観に共感できるかどうかに大きくかかっている。

◆◆

「紀子の食卓」で価値観を提示するのは主に、つぐみ演じるクミコである。「紀子の食卓」を気に入った人というのはクミコ(および喫茶店の男)の言い分を気に入った人であり、なんだこりゃ、と思った人は、それにノれなかった人だろうと思う。げんにオレはノれなかった。「紀子の食卓」を気に入ったという人は、クミコ(および喫茶店の男)の言い分を敷衍して、説得的に代弁してみて欲しい。そういうのを聞いて、少しはなるほどと、思ってみたい。
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by nobiox | 2009-06-28 21:55 | ├映画 | Comments(3) |
「ねぎぼうず」
原作:リリー・フランキー / 脚本:三浦大輔,大根仁 / 出演:真木よう子,田中哲司,みのすけ,松尾諭
★★…………おもしろいところもありました

『週刊真木よう子』は、2008年4月2日から6月25日まで、テレビ東京系列で放送されたテレビドラマ。全話を通じて真木よう子が主演を務め、毎回異なった演出家・脚本家・共演者によって制作された。テレビ東京系の深夜ドラマだが、系列以外のネット局でも放送されている。内容はラブストーリー、コメディ、ナンセンス、シリアスなど幅広い。当初は全13話の予定であったが、全12話+特別編という構成になった。Wikipediaより。

第1話「ねぎぼうず」第2話「スノウブラインド」第3話「おんな任侠筋子肌」第4話「中野の友人」を観た。微妙。「ねぎぼうず」だけちょっとイイと思いました。真木よう子以外で印象に残ったのは「ねぎぼうず」の田中哲司、「スノウブラインド」の中村達也。中村達也という人はプロの役者ではなく、BLANKEY JET CITYでドラムだった人らしい。内田裕也を若くした、みたいな感じ。いや、ダイヤモンドユカイに似てる、と言った方がわかりやすいか。真木よう子はやっぱりたしかに、なんだか凄い。しかしもうちょっと太って欲しい。「おんな任侠筋子肌」最低。「中野の友人」は、何をどう面白がればいいのかまったくわからんかった。
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by nobiox | 2009-06-27 22:10 | ├映画 | Comments(0) |
「紺野さんと遊ぼう」
原作漫画:安田浩之 / 監督:豊島圭介 / 主演:吉高由里子 / 2008年
★★…………おもしろいところもありました

ジミでヘンで匂いフェチでちょいエロな女子高生「紺野さん」の生態を淡々と描くビミョーにカルトなオタク漫画を、吉高由里子主演で完全実写化、とか聞かされればとりあえず食指が動くが、これで吉高由里子の魅力が堪能できるか、という意味ではガッカリ。だって台詞がないんだもん。吉高由里子が左利きだということはわかったが。

それに、あまりにもあからさまにヘン過ぎる。表層というかイヤむしろ奥というべきなのか、何処とは特定できない微妙で不思議な空気感に吉高由里子の魅力はあるわけで、露骨にヘンな動きや露骨にヘンな表情を全編にわたって見せられると、こんなのなら久本雅美でもいいじゃん、とか思ってしまう。いや久本雅美は久本雅美で尊敬してるんだけど、個人的にはもうちょっとさりげないトーンで作って欲しかった。

「夏の紺野さん」「紺野さんの悦楽」「待ち合わせ」「なんの差?」「帰宅部のたそがれ」「Daydream Believer」「紺野さん惚れる 初恋地獄篇」「辞書で遊ぼう」「紺野さん惚れる 恋愛監獄篇」「だんだんだん」「手仕事ニッポン」「紺野さん惚れる 告白死闘篇」「紺野さんのすべて」が、WOWWOWで放送された本編らしい。紺野さんがしゃべるのは「紺野さんのすべて」のラストに一言、そこだけ。素晴らしいと思うシーンはたくさんあったので、まあ面白いっちゃー面白い。合間におまけ(DVD特典?)として変なダンスと変なオークションが多数挿入されるが、それはさっぱり面白くない。
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by nobiox | 2009-06-27 21:51 | ├映画 | Comments(0) |
すごい役者
「白い春」というドラマで吉高由里子という役者を知った。すごい。何がどうすごいのかわからないんだけど、やっぱ「リアル」だってことだろうか。「白い春」には阿部寛も出ている。遠藤憲一も出ている。白石美帆も出ている。 デビット伊東も出ている。みなさん、悪くはない。しかし吉高由里子は別格だ。むちゃくちゃ素晴らしい。「吉高由里子にあって白石美帆にないものとは何か」、考えても、わからない。でもとにかくぜんぜん違う。「吉高由里子にあって大竹しのぶにないものとは何か」だと、さらにわからない。しかし何かが違う。吉高由里子は神である。いや、怪物というべきか。

「ゆれる」という映画で見たあの人は誰だ、と思って調べたら真木よう子だった。驚いた。「SP」というドラマに出てた人でしょ。ぜんぜん別人に見える。すごい。私は出演作ごとに「ぜんぜん別人に見える」役者に弱い。オダギリジョーも香川照之も伊武雅刀も蟹江敬三も新井浩文も素晴らしい役者だと思うが、「ぜんぜん別人に見える」ことはない。真木よう子はちょっとすごいですね。

続いて上野樹里と松山ケンイチと麻生久美子について書く予定。
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by nobiox | 2009-06-25 00:37 | ├映画 | Comments(0) |
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