カテゴリ:├映画( 42 )
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「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
原作:本谷有希子 / 脚本,監督:吉田大八 / 出演:佐藤江梨子,佐津川愛美,永作博美,永瀬正敏 / 2007年
★★★★……すごくおもしろかった

この1ヶ月に観た、すごくおもしろい DVD:「蛇イチゴ」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」「ゆれる」。けっこうおもしろかった映画(テレビで観た):「ターミネーター2」。まあまあだった DVD:「紺野さんと遊ぼう」。それ以下(私にとって)だった DVD:「週刊真木よう子」「紀子の食卓」「自転車吐息」。ほぼ五割か。意外に歩留まりが高い。「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」。いや、これねえ、素晴らしいです。観てよかった。

チャラい放蕩息子あるいは娘が帰還して、因習的な、停滞した、淀んだ地元の空気に緊張が生じる、というありがちな設定は、考えてみれば「ゆれる」「蛇イチゴ」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の3作に共通している。帰還のきっかけが葬式、というところまで3作共通。

高慢な自信家が理不尽に君臨する、というお話も珍しいものではない。「白鳥麗子でございます!」「正義の味方!」など、特に少女漫画の世界に多いような気がするんだが、だとすると何故だろう。「なんで○○さんっていっつも威張ってんの、バッカみたい。まあいちおうちやほやしといてあげるけどね」的な感情を胸に秘めて暮らす小中学生女子の割合が、男子よりも多いのか。あるいは、男の暴君が洒落にならないのに比べ、女の理不尽女王はどことなく愛嬌があって、煙たがられる一方で逆説的に愛されているのか。

これのオリジナルは漫画ではなく、本谷有希子による戯曲だそうだ。初演は2000年で、本谷有希子は当時22歳。本谷有希子自身が自己投影されているのは高慢な姉の方なのか虐げられる妹の方なのか、興味がある。

高慢な女王様が理不尽に君臨する、というお話を実写化すると、表情や照明や音楽の使い方などでコミカルなノリが強調されることが多い。「白鳥麗子でございます!」も「正義の味方!」もそうだった(のではないかと想像する。もっとも、それらの作品はタイトルも内容ももともとがコミカルだから当然かも知れないが)。本作もどことなく全体がマンガっぽいが、ただ(タイトルが仰々しく重々しい上に、たぶんそれだけでなく、もともとの戯曲の雰囲気が重いのだろう)、表面的にはコミカルな味付けがほとんどない。ソバをぶちまけるシーンなんて、「ナースのおしごと」だったら間違いなく「宙を舞うソバ」と「それを目で追う妻の表情」をスローモーションで交互に見せるはずだが、本作は北野武的にあっさり流す。唐突な美学と言うか。それがイイ。そのおかげで漫画を超えたお伽噺とでも呼ぶべき普遍性を獲得している、なんていうのは言い過ぎかも知れないがちょっと言ってみました。何かに印象が似てると思って記憶をたどったら、乙一(おついち)という小説家(?)の『zoo1』という短編集だった。教訓めいたものが何も残らない、不思議な、残酷な、意図不明の寓話。しかも(あっさり唐突な描写を補うかのように)、劇中の妹が姉の暴走ぶりを観察しては、コミカルに戯画化して見せる。呪みちる(Noroi Michiru )、という漫画家によるその劇中漫画がまた、素晴らしく魅力的に見える。

この妹は劇中、左手で漫画を描く。佐津川愛美オフィシャルブログによると、
腑抜けどもで左で字とか絵を書いていて、他の作品では右で書いていたのですが本当は何ききなんですか?

本当は右利きです☆左利きの人って天才肌というか、そういうイメージがあって、監督がもし出来たら左利きでいきたいという事で、私もそう思ったので、練習しました。
スタッフさんにドリルみたいなのを作って頂いて、字や漫画を書くのに必要な線や曲線を練習したり。ごはんを食べるシーンもあったので、普段の食事の時も左手でご飯を食べたり。
でも左手がキーになっている訳ではないし、敢えて頑張って練習したって言わない方がカッコいいけど、実際凄く頑張った方だと思うから、結構言っちゃってる。笑
監督と私のさり気ない深いこだわりです。
ということらしい。

高慢な女が似合う若き日本人女優といえば松雪泰子が思い浮かぶけど、佐藤江梨子も素晴らしいです。連続ドラマ『相棒』で、佐藤江梨子がハゲしく我が儘で暴力的で凶悪な犯罪常習者を演じた回を見たことがあるけど、調べてみたら放送は2005年11月30日(「監禁」)らしい。吉田大八はそれを見たのかも知れない。
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by nobiox | 2009-07-20 16:50 | ├映画 |
「自転車吐息」
脚本,監督:園子温 / 出演:園子温,河西宏美,杉山正弘 / 1990年
★……………最低。さっぱりわからん

冒頭の、あぜ道だか堤防だかを滑るように走る自転車目線のカットが素晴らしく気持ちよく、おおっ、と期待させられたが、そこだけだった。執拗にリフレインされる台詞。執拗な暗いモノローグ。長回し。特に、無表情な顔の意味不明な長時間ショット。ある種の「良心的」日本映画の典型というか、とにかく、おもしろくない。
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by nobiox | 2009-07-20 15:45 | ├映画 |
「蛇イチゴ」
原案,脚本,監督:西川美和 / 出演:宮迫博之,つみきみほ,平泉成,大谷直子,手塚とおる / 2002年
★★★★★…めちゃくちゃおもしろかった

「ゆれる」ほどの評判じゃないのでそれほど期待せずに観たんだが、こりゃ凄い。面白い。これが28歳のデビュー作なのか。スゲー。びっくり。「ゆれる」だって少なくとも「スター・ウォーズ」や「ダイ・ハード」や「ジュラシック・パーク」よりもはるかに面白いけど、じゃあ「ローマの休日」並に面白いのか、と言われたら、いや、さすがにそこまでは・・・と思う。しかし「蛇イチゴ」についてはそういう留保はない。紛れもなく「オレが生涯で観た映画のうちのベスト100」に入る。オレが生涯に100本も映画を観るかどうかはわからないが。

まず話が、まあべつに画期的な新機軸ではなく、ありがちなお話だが、面白い。人ってね、100%の善意とか100%の悪意って、そうそうないと思うんですよ。自分のこと考えても、善意のつもりだったけど、よく考えるとウラのウラのウラに1%の悪意が混じってたのかなー、って思ったりとかね、みんなそういうグレーゾーンで生きてると思うんですよ。そういうところを描きたいな、と。西川美和はNHKの「トップランナー」でそんなことを語っていた。まさにその通りのお話。

その通りのお話だとしても、同じ話でも語り手次第で面白く聞こえたりどうでもいい話に聞こえたりするものだ。この話をどういう順序で語ろうかという設計図、つまり脚本が素晴らしい。さらに、どんなに素晴らしい脚本でも撮り手次第でぜんぜん違う映画になる、のか、ならないのか、私は知らんけど、何かが素晴らしい。この、「何か」とは、何でしょうね。カット割りのリズム? 構図? ボンクラな私にはよくわからないんだが、観てて何故だか気持ちいい。小津安二郎みたいというか。いや自分で言ってて自信ないけど。

カット割だの構図だのを語れるほど映画通じゃないんだが、そういう素人の感想としても、キャスティングと演出がキマッている。宮迫博之という人は芸達者な部分が目立って何の役をやってもいつもどこかがわざとらしい。NHK特集「沸騰都市」のナレーションもわざとらしい。と、思うんだが、その宮迫博之が「わざとらしい、いんちき臭い、すべてが信用できない、如才ない、どんなピンチも口八丁で平然と乗り切る詐欺師」の役で、ものの見事にハマっている。阿部サダヲふうなインチキ臭さというか。「イケメンとして定評あるが何の役をやらせても台詞は棒読み」の速水もこみちにロボットの役をやらせたらバッチリだった、という故事を思い出した(速水もこみちがロボットの役をやったドラマと「蛇イチゴ」のどっちが先かは知らない)。

手塚とおるは登場シーンは多くはないが、強烈。先日コメント欄で教えてもらった通り、ほんとうに気持ち悪くて、面白い。素晴らしい。先日「ふつうに『味のある役者』」になっただなんてトンチンカンなことを書いてしまって申し訳なかった。やはり怪物だ。モンスター・ペアレントとかモンスター・ペイシェントという言葉があるが、この映画での手塚とおるは、何だろう、「モンスター・フィアンセ」か。

「紀子の食卓」では孤独なおっさん役で出てたけど、カメラ目線で長台詞をえんえんと語る「喫茶店の男(古屋兎丸という漫画家がやってた)」こそ手塚とおるにやらせるべきだったのではなかろうか。
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by nobiox | 2009-07-14 19:06 | ├映画 |
「ゆれる」
原案,脚本,監督:西川美和 / 出演:オダギリジョー,香川照之,真木よう子
★★★★……すごくおもしろかった

東京でカメラマンとして成功したチャラいノリの弟にオダギリジョー、地元で家業のガソリンスタンドを継いだ実直で腰の低い兄に香川照之、上京を夢想しつつ田舎にくすぶるオダギリジョーの元カノに真木よう子。兄弟の父に伊武雅刀、叔父に蟹江敬三、真木よう子の同僚のガソリン店員に新井浩文。そう聞くだけでどんなタッチの映画か想像つくでしょう。その想像通りの重い映画なんだが、で、ありつつ、エンターテインメントとしてちゃんと面白いところが素晴らしい。

良心的な映画とか、意欲あふれる映画とか、志の高い映画とかは日本映画界にたくさんある。やたらに使われる長回し、やたらに挿入される意味不明な間。暗いトーン、ぼそぼそした台詞。どれもこれも退屈だ。オレが観たいのは面白い映画だ。「ゆれる」は希有な達成だと思う。まあ、年に数本というペースでしか映画を観ない人間がそんなこと言う資格はないんだろうが。

音楽は全編カリフラワーズというバンドだそうで、ファンキーと言うんだろうか、個人的にはあんまり合ってないように思いました。
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by nobiox | 2009-07-13 03:07 | ├映画 |
「紀子の食卓」
監督:園子温 / 出演:吹石一恵, 吉高由里子, つぐみ, 手塚とおる / 2006年
★……………最低。さっぱりわからん

Wikipediaの「園子温」の項にはこう書いてある。「17歳で詩人として「現代詩手帖」「ユリイカ」等に投稿し、「ジーパンを履いた朔太郎」と評される。1987年、『男の花道』でぴあフィルムフェスティバルグランプリを受賞。PFFスカラシップとして制作された『自転車吐息』がベルリン国際映画祭で正式招待作品となるなど、90年代にはインディーズ系映画界を席巻。荒木経惟、麿赤児、吉本ばなな、横尾忠則、荒川真一郎など、絶賛した著名人、関わりのある著名人多数」「毎回映像実験的な表現を貫き、同時に社会や人間を鋭く抉るメッセージ性や、非常に明晰で大胆、かつ哲学的でさえあるコンストラクチャーが特徴で、同時に詩的飛躍とも呼べる感覚的、直接的な映像と演出などを行い、矢継ぎ早に作品を発表している」

「コンストラクチャー」とは「質感」のことかと思ったが、それは「テクスチャ」だった。「コンストラクチャー」とは何か知らないが、「構造」という意味かも知れない。しかしそうだとすると「哲学的でさえある構造が特徴」ということか。意味がわからんけど。

「紀子の食卓」は「自殺サークル」の後日譚にあたり、社会や人間を鋭く抉るメッセージ性をもつ代表作で、第40回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭特別表彰、国際シネマクラブ連盟ドンキホーテ賞を受賞したそうだ。「あなたはあなたの関係者ですか?」という台詞が何度も繰り返される。なるほど「哲学的でさえあるメッセージ性」か。しかしざんねんながらオレにはこの質問の意味がわからんし、この映画のどこが素晴らしいのかもさっぱりわからない。だって出演者のモノローグで心理とストーリーの説明するんですよ。出だしだけかと思って我慢してたら、なんと、全編にわたって。しかし Amazon のユーザーレビューを読むと、それだって必ずしも欠点ではないらしい(以下の引用は当方の要約)。

淡々としたナレーションと落ち着いた音楽に包まれて進む詩的な世界に引き込まれる。人間の本来ある本質を描き、衝撃を受け心に残った。
空気感映像がとても綺麗で、ナレーションが心地良い。吉高由里子、この人は注目です断然存在感。

なるほど。淡々としたナレーションが心地よい、か。一人称ナレーションスタイルが「登場人物それぞれの」「自己喪失感を上手く表現している」と書いてあるBlog も見かけた。言われてみるとそんな気もする。吉岡秀隆ふうな内省的ナレーション、というか。モノローグというのは吉岡秀隆でなくても、誰がやっても内省的な感じになるのかも知れない。そういや高嶋政伸の「姉さん、事件です…」だって内省的に聞こえるもんな。Amazonには他にも熱い賛辞が並んでいる。以下の引用はすべて当方の勝手な要約。

誰もが役割を演じている。主題に目新しさは無いが、注目すべきは園監督のアプローチの仕方。暴力的に嘘を見抜き、切り裂いていく。血まみれ、怒鳴りあい、泣き喚く。その先にあるのは光。
過剰な演技、過剰なディテール、過剰な主題。この過剰さが本当に心地いい。主演4人の過剰さが潔く、カッコよく、グイグイ惹きつけられる。「役割」とは何か、役割から離れた「本当の自分」なんてものがはたしてあるのか。過剰な混沌をたたきつけられる傑作。
面白いッ!159分の長さを感じさせないすごい完成度。真実と虚構のてんびんを激しく揺らしながら進行する物語に目がくらむ。感性と構成力に驚かされっぱなし。クライマックスの圧倒的な迫力。こんなスリルは初めて。今どきの日本人のリアルな姿。
残酷に見える映像はコメディーにも見えるし、何か試されてるようでもある。「よくわからない何か」が分かるきっかけに繋がる映画。内面をじっくり抉られて、しっかり立たされたような素晴らしい作品。
自殺サークルを観てガッカリしていたが、この作品は人間の内側を繊細な言葉で表現していて凄い。素晴らしい。意味不明な言葉が多く出てくるが、じっくり聞くとシッカリと意味がある。
家族や人格の「入れ替え可能」の象徴としてのレンタル家族。入れ替え可能ゆえに、例えば集団自殺をし、例えば殺されることをも甘受する。誰が死のうが、何が起きようが変わらない「終わりなき日常」。血みどろの惨劇は夢か現か。夜明け前、ユカはひとり東京の街へ消える。家族の「入れ替え不能性」が夢物語でしかないことを思い知らされる瞬間だ。
女子高生の危うい状態が描がかれ、彼女達が理解できなかったりもするが、それも含めて見ごたえあり。2時間半の長丁場だが飽きない。合う人には合う物語。
自殺サークルを理解出来ず反感を持った方に特に、この作品を見て、もう一度自殺サークルのメッセージを感じて欲しい。本当に何も難しいことはない。気付くか、気付かないか。描かれている事は、単純に致命的なこと。
人を殺してはいけないとか、自殺する人間は愚か者のすることだとか、血と血で繋がっている家族の絆は、何者も壊すことができないとか、今まで当たり前のように思ってきたことが、もろくも崩れそうになる。見終わったとき体が硬直し、すぐに席を立つことができなかった。誰かと語り合いたい、と思う一方、この映画の世界観に深く入り込むと大変なことになると感じる自分もいる。それほど強力なパワーを持った映画。
変わらない日々に苛立つ紀子は、家出して、上野駅54と出会い、自分自身を捨て去り、役割を演じる中で、時には殺される事すら自然な事として受け入れてしまう。そのあまりにも軽い自意識をどう評価していいか分からない。映画館であまりの衝撃に暫く呆然として、今回発売されたDVDを再度見たが、こんな凄い映画は他に見た事がない。いつか歴史的名作とされる日が来るのではないかと思う。誰もが役割を演じて生きている。確かにそれは事実だけれど、ほんの少し角度を変えればこういう事だろと言われると、返す言葉が見つからない。
青春期特有の否定性のままに、此処ではないどこかを求めて家出する紀子。模擬家族を演じていくことで否定性から見かけ上の肯定へ。妹ユカ(吉高由里子すごい!冷ややかな美貌!あの目つき!)もまた姉の足跡を追い、ノートを残して家を出る(ノートをとってる彼女の姿が、教室、プールサイド、街頭、と美しいシーンの連続)。
父・徹三の章からラストまで一分の隙もないスリル、自殺サークルの意味が初めて具体的に語られる古屋兎丸の怪演。父娘再会の場に集中する役者全員の気迫。嗚咽しながら妹が言う「・・・みんなライオンに見えるの。・・・ウサギに戻ろうよ」この言葉で四人の中の何かが終わる。ミツコは紀子に戻り、徹三は生まれ変わって、娘にとって良き父親たろうと既にまた演じ始めている。ひとり目覚めている妹だけが、再び始まる虚構の虚しさを断ち切って、もう一度、今度は本気で家を出てゆく・・・。 癒しとしての家族性の確認(ノスタルジー)とその家族性からの全き解放の夢を同時に見せるラストまで、全カットに無駄がない、必然性を感じる映画。娯楽を越えた、一から十まで「本気」の映画。

◆◆

グイグイ惹きつけられるとか、すごい完成度だとか、人間の内側を繊細な言葉で表現だとか、強力なパワーだとか、美しいシーンの連続だとか、一分の隙もないスリルだとか、全カットに無駄がないとか、ざんねんながらどこがそんなにそうなのかわからないオレは負け組だ。くやしい。「クライマックスの圧倒的な迫力」というのがどのシーンのことなのか、それすらわからない。ナイフを振り回すシーンのことか?

私としてはナイフを振り回すシーンにはとりわけがっかりしました。だってさー、ナイフを振り回すたびに「ビュッ」とか「ブヒョッ」とかいう効果音がつくんですよ。通り一遍じゃない、ルーティーンを拒否した、お約束を拒否してリアリティに迫る、清新な感覚で真実に迫りたいです、という、そういう映画かと思って見てたのよ、いちおう。そしたらナイフを振り回すたびに「ビュッ」とか「ブヒョッ」だってさ。バカみたい。あんなお約束的な効果音がなんのために必要なのか理解できない。

まあ後から思えば、例えば「大量跳び込み自殺でホームと列車の隙間から血がピュー」の時点でそういう傾向 (キルビル好き?)に気付かなかった私がアホだったような気もするが。そういえば雨宮「リストカッター」処凛さんが絶賛しておられる。それは理解できる気がする。なんとなくだが。

◆◆

内容はともかく、これは吉高由里子の映画デビュー作らしい。とにかく吉高由里子の映画デビュー作を観れたことには満足。すでに非凡である。ここでのしゃべり方は小倉優子的とでもいうか、そういうふうに演じているのかこの当時の地なのかわからないが(まあ怪物的な天才役者に「地」なんてものはないのだと思うが)、とにかくしゃべり方がとっても甘い。ちょっとイラッと来るぐらいに甘い。広末涼子二世のようなイメージ。見た目は夏帆にも似ている。三井のリハウスのCMが似合いそう。広末涼子も夏帆も格別凄いと思わない(すごく可愛いとは思うが)自分としてはちょっと意外だった。しかし、YouTube で吉高由里子のインタビューとか記者会見とかを何本も見たけど、どれも驚くほど魅力ない。なぜ演技してるときだけあれほど神がかって見えるのだろうか。

きのう「ねぎぼうず」で久々にみのすけを見たと思ったら、きょうはこの映画で手塚トヲルを見た。怪物・吉高由里子目当てに見たわけだが、そう言えばかつて劇団健康の舞台で見たみのすけも、手塚トヲルも、とてつもない怪物に見えたなー。今はどちらも年をとって、ちょっと太って、ふつうに「味のある役者」に見えた。それはそれでちょっとイイ。

◆◆

TSUTAYAのレンタルが一週間だったので、6日おいてもう一度観た。ナレーション進行に耐性ができてたおかげなのか、一度目よりははるかに楽しめた。劇中の長台詞:
「自殺クラブなんて存在しません。あなた方の無関心と、好奇心が、自殺クラブを生んだのです。強いて言えばですね、自殺サークル、と言うべきなのでしょう。それは『輪』なんです」
「(輪?)」
「とりあえず、かつて、コインロッカーで生まれた、天照大神がいたと思ってください。現代の天の岩戸は、ひび割れた裂け目は、東京の上野駅のコインロッカーナンバー54から始まったのです。彼女が経営されているのが、コーポレーションICという、レンタル家族の会社です。客のお呼びがかかると、出張してそこの家族になり、一日を過ごす仕事です。それが、皆様の要望で年々、家族として一年、ややもすると十年も二十年も一緒に過ごすような、大きな仕事も請け負うようになりました。表向きは、ヘルス器具の販売会社だったり、車のレンタル会社だったりする子会社も含めて、いくつかの企業も育っています。そういうことでよろしいでしょうか」

「秘密など我々にはありません。お尋ねのことは、すべて話しました。今や、あなた以外の人はみな、役割に目醒めつつあります。徹郎さん、わかってますか。あなたは、たしかに、一生懸命私たちをリサーチした。よく知っています。わかっています。それで、何がわかりましたか。あなたは、あなたの役割を記者にしてきました。だけどもう、怖がることはありません。あなたはもう解放されたのです。自分の役割に目醒めるときが来たのです。あなたは誰ですか。あなたは先ほど自分自身に関係していると言いましたね。だがどうでしょう。あなたはとてもびくびくしていて、記者を演じているとは言えません。父を演じているとも言えません。現実の社会は、あまりにも過酷で、父や、母や、子供や、妻や、夫を演じるには、人々は疲れ果てて、表裏が複雑でしっくりといきません。ここではすべてが嘘で、表も、裏もありません。むしろ、全面的に虚構を突き進むこと、それで初めて自分と出会えるのです。砂漠を感じるのです。孤独を感じるのです。実感するのです。確固たる砂漠で生き抜くこと、それが、役割です。(場内に満ちる拍手)
うーむ、「全面的に虚構を突き進むと、初めて自分と出会える」・・・やっぱりわからん。あまりに凡庸な感想で申し訳ないが、虚構を突き進むとふつう生の実感は薄くなるんじゃなかろうか。ただ、音楽がセンスいいなー、と気付きました。台詞抜きのサントラとかあったら欲しいぐらい。

◆◆

映画や漫画やテレビドラマや小説には、価値観提示型、とでも呼ぶべきものがある。と、思う。例えば「ねぎぼうず」もそうだ。

27歳の平凡な人妻よう子が、探偵を名乗る見知らぬ男に呼び止められる。男は、2年前に出会い系サイトを介してよう子と出会い関係をもった○○さんの依頼で彼女を探していて、ついに見つけたのだという。○○さんはあなたのことが忘れられなくて、どうしてももう一度、あなたとしたいそうですよ。

2年前。

当時、たしかによう子は寂しさから出合い系にハマり、その場限りの性交を日々繰り返していた。それは現在のよう子にとって「なかったこと」にしたい過去である。○○なんて名前もいっさい記憶にない。そんな、おかしいじゃないですか。そんな出会いで、お互い名前も知らずに抱き合っただけで、その○○さんは、私の何をわかったって言うんですか。

正論のように聞こえるが、しかし探偵は平然と反問する。そうでしょうか。本名と職業と現住所と出身地を知り合い、食べ物の好みと芸能人の好みと映画や音楽の好みを知り合う、そういうところから始まるのもアリでしょう。だけど、体の相性とか、性癖とか、肌の湿り具合とか、そのときの表情とか、そういうところから入るのも、それはそれで却って真実なんじゃないですか。今のあなたのご主人は、あなたのそういう面を、果たして深くご存知なんですか。そう反問する。そういう価値観を、提示、する、のである。

そう言われて、この探偵の言ってることがイコール作者の言いたいことなんだな、と思うほど、観客はナイーブではないにしても、ただ、ここで作者はそういう価値観を提示してみたいんだな、くらいは思う。だから、その作品に共感できるかどうかは、その価値観に共感できるかどうかに大きくかかっている。

◆◆

「紀子の食卓」で価値観を提示するのは主に、つぐみ演じるクミコである。「紀子の食卓」を気に入った人というのはクミコ(および喫茶店の男)の言い分を気に入った人であり、なんだこりゃ、と思った人は、それにノれなかった人だろうと思う。げんにオレはノれなかった。「紀子の食卓」を気に入ったという人は、クミコ(および喫茶店の男)の言い分を敷衍して、説得的に代弁してみて欲しい。そういうのを聞いて、少しはなるほどと、思ってみたい。
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by nobiox | 2009-06-28 21:55 | ├映画 |
「ねぎぼうず」
原作:リリー・フランキー / 脚本:三浦大輔,大根仁 / 出演:真木よう子,田中哲司,みのすけ,松尾諭
★★…………おもしろいところもありました

『週刊真木よう子』は、2008年4月2日から6月25日まで、テレビ東京系列で放送されたテレビドラマ。全話を通じて真木よう子が主演を務め、毎回異なった演出家・脚本家・共演者によって制作された。テレビ東京系の深夜ドラマだが、系列以外のネット局でも放送されている。内容はラブストーリー、コメディ、ナンセンス、シリアスなど幅広い。当初は全13話の予定であったが、全12話+特別編という構成になった。Wikipediaより。

第1話「ねぎぼうず」第2話「スノウブラインド」第3話「おんな任侠筋子肌」第4話「中野の友人」を観た。微妙。「ねぎぼうず」だけちょっとイイと思いました。真木よう子以外で印象に残ったのは「ねぎぼうず」の田中哲司、「スノウブラインド」の中村達也。中村達也という人はプロの役者ではなく、BLANKEY JET CITYでドラムだった人らしい。内田裕也を若くした、みたいな感じ。いや、ダイヤモンドユカイに似てる、と言った方がわかりやすいか。真木よう子はやっぱりたしかに、なんだか凄い。しかしもうちょっと太って欲しい。「おんな任侠筋子肌」最低。「中野の友人」は、何をどう面白がればいいのかまったくわからんかった。
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by nobiox | 2009-06-27 22:10 | ├映画 |
「紺野さんと遊ぼう」
原作漫画:安田浩之 / 監督:豊島圭介 / 主演:吉高由里子 / 2008年
★★…………おもしろいところもありました

ジミでヘンで匂いフェチでちょいエロな女子高生「紺野さん」の生態を淡々と描くビミョーにカルトなオタク漫画を、吉高由里子主演で完全実写化、とか聞かされればとりあえず食指が動くが、これで吉高由里子の魅力が堪能できるか、という意味ではガッカリ。だって台詞がないんだもん。吉高由里子が左利きだということはわかったが。

それに、あまりにもあからさまにヘン過ぎる。表層というかイヤむしろ奥というべきなのか、何処とは特定できない微妙で不思議な空気感に吉高由里子の魅力はあるわけで、露骨にヘンな動きや露骨にヘンな表情を全編にわたって見せられると、こんなのなら久本雅美でもいいじゃん、とか思ってしまう。いや久本雅美は久本雅美で尊敬してるんだけど、個人的にはもうちょっとさりげないトーンで作って欲しかった。

「夏の紺野さん」「紺野さんの悦楽」「待ち合わせ」「なんの差?」「帰宅部のたそがれ」「Daydream Believer」「紺野さん惚れる 初恋地獄篇」「辞書で遊ぼう」「紺野さん惚れる 恋愛監獄篇」「だんだんだん」「手仕事ニッポン」「紺野さん惚れる 告白死闘篇」「紺野さんのすべて」が、WOWWOWで放送された本編らしい。紺野さんがしゃべるのは「紺野さんのすべて」のラストに一言、そこだけ。素晴らしいと思うシーンはたくさんあったので、まあ面白いっちゃー面白い。合間におまけ(DVD特典?)として変なダンスと変なオークションが多数挿入されるが、それはさっぱり面白くない。
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by nobiox | 2009-06-27 21:51 | ├映画 |
すごい役者
「白い春」というドラマで吉高由里子という役者を知った。すごい。何がどうすごいのかわからないんだけど、やっぱ「リアル」だってことだろうか。「白い春」には阿部寛も出ている。遠藤憲一も出ている。白石美帆も出ている。 デビット伊東も出ている。みなさん、悪くはない。しかし吉高由里子は別格だ。むちゃくちゃ素晴らしい。「吉高由里子にあって白石美帆にないものとは何か」、考えても、わからない。でもとにかくぜんぜん違う。「吉高由里子にあって大竹しのぶにないものとは何か」だと、さらにわからない。しかし何かが違う。吉高由里子は神である。いや、怪物というべきか。

「ゆれる」という映画で見たあの人は誰だ、と思って調べたら真木よう子だった。驚いた。「SP」というドラマに出てた人でしょ。ぜんぜん別人に見える。すごい。私は出演作ごとに「ぜんぜん別人に見える」役者に弱い。オダギリジョーも香川照之も伊武雅刀も蟹江敬三も新井浩文も素晴らしい役者だと思うが、「ぜんぜん別人に見える」ことはない。真木よう子はちょっとすごいですね。

続いて上野樹里と松山ケンイチと麻生久美子について書く予定。
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by nobiox | 2009-06-25 00:37 | ├映画 |
「ダークナイト」
★★★………おもしろかった

かつての勤務先にはミニコンポが置いてあり、我々従業員はカセットテープで好きな音楽をかけていいことになっていた。極々まれに、社長がその音楽にコメントすることがあったが、コメントは基本的にいつも同じだった。「おもしろいけど、ビートルズを超えてはいないね」。

アホか、と内心思っていた。例えば「ウェザーリポートのファンがクラッシュを聴いてダサイと思う」とか「ベン・E・キングのファンがジョン・レノンの『スタンド・バイ・ミー』をダサイと思う」、というようなことなら理解はできる。「ダサイ」なら判るのだ。しかしルー・リードを、或いは最新型のピチカートファイヴを、老人は「ビートルズを超えてるかどうか」を基準に評価するのか。アホか。それは現役のグラビアクイーンを「マリリン・モンローを超えてるかどうか」で評価するのと同じようにアホらしい。現在マリリン・モンローはいない。だから「マリリン・モンローを超えてるかどうか」なんて基準自体がアホらしい。我々は生きているのであり、生きている以上は新しい刺激を求める。それが「かつて存在したスターを超えているかどうか」など、まったくどうでもいいことだ。

・・・・・・と、内心思っていた。あの頃オレは若かった。世の中的にカセットテープは現役だったし、携帯電話なんてものはまだほとんど普及していなかった。あれは20年ちょっと前だろうか。

今日、映画「ダークナイト」を観た。観ている間、かつ、終わったあと、オレはずっとこう思っていた。「じつによくできているが、ブレードランナーを超えてはいない」。ブレードランナーと較べてくれ、なんて誰にも言われてないのに。ああなんてことだ。歳をとったんですねー。だけどしょうがないじゃん、歳とったんだから。それに、やっぱ似てるのよ。映像の質感も、音楽の雰囲気も。いったんそう思ってしまったらもう思い込みのせいか、すべてがそう見える。ラストなんて、主役が何処へとも知れず逃げて行くシーンで終わるのである。そこにかぶさるヴァンゲリスふうな音楽。わざとやってるのかと思ってしまう。

「ブレードランナー」とはどんな映画か。数体のアンドロイドが自我に目覚めて逃走し、密航して地球に戻って来る。体内に仕込まれた寿命タイマーを、自らの製造元に押し入って解除するつもりなのだ。孤独な警官がそのアンドロイドを探し、追い、戦う。それだけだ。「ダークナイト」も「スター・ウォーズ」も、脚本だけ見ればこれより遥かに複雑で緻密だと思う。私など、これだけ聞けばとても映画一本になる話とは想像できないだろう。しかし、なるんだねー。まさにマジック。あれからオレは、お前たち人間が想像もできない映画を見てきた。オリオンの三つ星のそばで燃え上がる宇宙船、タンホイザー・ゲイトのオーロラ、宙を飛ぶ正義の味方、信じた人の変心に泣き喚く美少女。そうした映画もいつかは消える。雨のように、涙のように。そしてブレードランナーだけが残る。このことはブレードランナーの中で既に予言されていた。「ひとつでじゅうぶんですよ」と。ご存じのようにこの台詞は「GANTZ」にも登場する。

と、いう前書きで、ブレードランナーを語るつもりで書き出したんだけど、これ以上語る力がないし、これだけ書けば気分的にはじゅうぶんなので、ここで終わります。
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by nobiox | 2008-09-06 22:24 | ├映画 |
『相棒』(ネタバレ含む)
★……………最低最悪。おもしろいところも少しはあったかも。

『相棒−劇場版−絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン』を観て、金返せ!!という心境になったので、ここに怒りをメンメンと吐露し発散することにしたい。映画の内容を知りたくない人は読まないでください。



























■動機の設定

中南米のどこかで武装勢力が日本人ボランティア青年を誘拐し、日本政府に身代金を要求する。しかしそんなのは自業自得だ日本人の恥だとワケのわからんバッシングが青年に集中し、彼は武装勢力によりカメラの前で射殺され、残った家族は深く傷付く。

と、いう事件から5年。死んだ青年の親友「塩谷先輩」が、彼を見殺しにした政府と世間に対して復讐を開始する。

なかなかいい。権力が悪で無辜の人民大衆が善、というみんなが大好きな分かりやすい構図に収まらない、この割り切れない気持ち悪さ。重く気持ち悪い問題提起。

もっとも、それを言わんがために「一方に澄んだ瞳の善人(殺された青年)、他方それを憎々しげにバッシングする心無い人々」という、もうひとつ別の分かりやすい構図に収めてしまっているのだが。それと、残った者の怒りが日本政府と日本の世間に向かう一方、現に彼を拉致し射殺した組織には全然向かわないらしいのも不思議だ。でもまあそうであっても、この動機の設定はなかなか意欲的で、イイと思いました。

■暑苦しい

しかし動機の設定の部分以外には、誉めるところが何も見当たらない。ひたすら重々しく悲劇的で荘厳な音楽は、これから大変なものを発見しますよー、という場面では殊更意味ありげにモノモノしさを増し、大変さをアピールする。要するに物凄く説明的。水谷豊の熱演ぶりがそれに拍車をかける。60分で解決するドラマのうち、右京さんが顔面を震わせながら熱くなるのは最後のほんの数秒のみ、というのがドラマ『相棒』のほどよい塩梅なんだが、この劇場版では熱くなりっ放し、ツバ飛ばしっ放しで暑苦しいことこの上ない。

■殺人予告を「たまたま発見」

相互に無関係と思われた事件の被害者が、実はあるサイトで、処刑リストなるものに名を挙げられていたことが判明する。このサイトは後半に到るまで、ドラマの中で重要な役割を果たす。捜査陣がこのサイトに行き着く経緯は脚本の腕の振るいどころだろう。それが、「ある警察官がプライベートでたまたま発見」したんだそうだ。なんだそりゃ。何か他にないのか。ひねりとか。なるほど感とか。意外性とか。そんなんなら、「犯人から犯行声明が届く」の方がまだしもサマになるのではないか。

■なぜ予告するのか

2ちゃんねるで犯行予告、みたいな事件が現実世界で増えてるせいなのかどうか、犯人が犯行を予告するという設定の異常さが、ドラマの作り手の中であまり自覚されなくなっているんじゃなかろうか。言うまでもなく、犯罪は不意をついてこっそりやるのが基本であり、わざわざ予告するのはイタズラか、精神不安定か、そうでなければ何か特殊な狙いがあるわけだ。この作品では、次の(あるいは、最終的な)ターゲットは東京ビッグシティマラソンだ、と犯人が予告する。どうして予告するのかというと、早く捕まって裁判で、青年が浴びた非難の理不尽さを訴えるため、みたいなことが最後に説明されるが、理解できない。捕まりたいならもっと手軽な方法がいくらでもあるだろう。近所の交番でお巡りさんにペンキをぶっかけるだとか。というか、この時点ですでに犯人(たち)は3人殺している。捕まりたいならなぜ自首しないのか。大々的におおごとにしたいなら、それこそ2ちゃんねるに犯行声明でも出せばいいだろう。我々はこういう理由で3人殺した、我々はこの国の「世間」を赦さない、とかなんとか。

■予告するなら何故わかるように予告しないのか

しかもその予告というのが、次のターゲットは東京ビッグシティマラソンだよーん、止められるもんなら止めてみなー、というルパン三世みたいな予告ではない。チェスの棋譜に仕組まれた、微妙ななぞなぞみたいな予告だ。普通そんなことをするのは劇場型愉快犯としか考えられないが、この犯人にはそんな雰囲気がいっさいなく、何のためにそんな複雑なハードルを設けたのか理解できない。

■そもそもなぜ爆弾を仕掛けたのか

その微妙ななぞなぞを解いた結果、ターゲットはマラソンルート上の臨海大橋だ、となる。橋に駆け付けると不審なモーターボートを発見。それがタイマーだかリモコンだかで、無人のまま動き始める。爆弾を積んだボートを橋桁に激突させて橋を爆破するつもりです、と右京さんがツバを飛ばしながら説明的な台詞。亀山君と伊丹君の活躍で、危うく爆破は未遂に終わる。これは「東京ビッグシティマラソン」をめぐる最大スケールの計画であり、お話的にも画面効果的にも最大の見せ場の筈なんだが、全然盛り上がらない。人が爆弾ものにハラハラドキドキするのは、回避できなかった場合どんなに悲惨なことになるか、イメージを思い描くからだ。この場合、回避できなかったらどうなっていたのだろうか。亀山伊丹コンビは即死、橋桁は木っ端微塵に吹っ飛び、ズゴゴゴゴ・・・と断末魔の地鳴りを挙げて橋全体がガラガラと崩落したのか。だとしたらかなりのスペクタクルだが、そういうイメージがぜんぜん持てない。だって右京さんたち、誰も逃げないんだもん。かと言って、亀山君と伊丹君に一蓮托生、という死を賭す覚悟も描かれない。「今すぐマラソン大会を中止させてくださいッ!」なんてこともない。橋の上から、ただ見ている。なんなんだよいったい。アレじゃ、いくらテレ朝マネーを注ぎ込んだと言ってもまさかこんなデカい橋の現物を爆破させるなんてできっこないもんね、と登場人物が舞台裏を読んで安心してるようにしか見えねーよ。

この緊迫感のなさの源泉を思い巡らすと、そもそも何のためにモーターボート爆弾を仕掛けたのか、犯人の意図がわからないという問題がある。マラソン参加者をたくさん殺したいにしてはタイミングがズレている。じゃあなんなのか、というと、わからない。狙いがない。執念もない。ターゲット予告から爆破阻止にいたる一連のエピソードの存在に、必然性がない。攪乱のためか。なぜ攪乱の必要があるのか。おおごとにするためか。例えばここに

相棒を推理、謎が解けました。

木佐原の狙いは息子渡の名誉回復。その証拠となるSファイルの公開を、国民注視の中で御厨元首相に迫る事。だから選んだ舞台は御厨が発起人となっている東京ビッグシティマラソン。だが単純に御厨にSファイルの公開を迫るだけでは「そんなもの知らん。」と言われたらそれでおしまい。そこで木佐原は連続殺人事件とマラソンを狙ったテロという大きな舞台装置を作り、どうしてもマスコミが大騒ぎせざるを得ない様お膳立てをした。演出にチェスの棋譜を使ったのは、チェス好きの御厨に対する挑戦の意味があったのでしょう。

という意見がある。しかしそれにしては臨海大橋爆破計画はあまりに地味で、現場にマスコミのカメラ1台すらない。どうしてもマスコミが大騒ぎせざるを得ない? いや、マスコミはぜんぜん大騒ぎしてなかったじゃないですか。大騒ぎが目的なら、殺したテレビキャスターと医者の処刑の様子を撮影した凄惨な動画ファイルをWinnyでばらまくとか YouTube にアップするとかの方がよほど効果あるだろう。そもそも、大々的に予告したらマラソン大会は中止になってしまうんだから、マラソン大会のようなイベントはマスコミを騒がす予告犯罪には向いていない。おおごとにしたいんだったらむしろ予告せず、大規模な爆破を必ず成功させなければならない。
 なのに犯人は中途半端に予告し、中途半端なのでマスコミには伝わらない。で、あるならば、爆破は必ず成功させなければならないわけだが、予告したせいで爆破は回避される。どういうつもりなのか、さっぱりわからない。強いて考えれば、せっかく予算があることだし水上ボートチェイスを撮ろうよ、ということだろうか。全然盛り上がらない。

■アジトを「たまたま思い出す」

爆破阻止の直後、塩谷先輩(この時点では犯人と思われた)のアジトへ向かう。アジト発見に到る顛末は脚本の練りどころだろう。しかしそれは、青年の妹(本仮屋ユイカ)が「私、塩谷先輩の大事な場所を思い出したんです」と右京さんの携帯に電話をかけて来る、というもの。それも、爆破阻止の直後というじつにご都合主義なタイミングで。なんだそりゃ。何か他にないのか。ひねりとか。なるほど感とか。意外性とか。

■アジトは何故爆破されるのか

アジトに着くと塩谷先輩は青酸カリを飲んだか、飲まされたのか打たれたのかよくわからなかったけど、何故かとにかく青酸カリで瀕死の重体である。そしてその部屋で、時限爆弾が作動している。お決まりのパターンでドアは閉ざされ出られない。右京さんは地下抗(?)に飛び込み、飛び込んだ直後に派手な爆発。間一髪危機を脱する。画面効果的には大きな見せ場の筈なんだが、誰が何のために時限爆弾を仕掛けたのか、狙いが理解できない。こっちのアタマが悪いせいだとしたら申し訳ないが、塩谷先輩が誰に何のために殺されたのか或いは自殺なのか、それもわからない。まさにとってつけたようなエピソード。爆発のための爆発。さっきの臨海大橋爆破阻止との関連も、いっさいない。

ちなみにこのシーンには、右京さんにかけた電話を「私もそこへ向かいます」と言って切った本仮屋ユイカもいるんだが、これまた必然性がない。なんで素人の女子大生がそんなところに来るのよ。もちろんオレだって、美しい少女が頬を煤で汚し、爆発現場に茫然と座り込んで放心する絵を見るのは好きだ。だからこそ必然性が欲しいんだよ。

ちなみに塩谷先輩はアジトで発見される直前、マラソンのスタート地点で発見されている。彼が何のためにマラソン大会に出場していたのか、それもさっぱりわからない。

「見えるタイマー」の存在も疑問だ。時限爆弾だからすなわちタイマーがついている。赤い数字が表示され、それが刻々とゼロに近付いていく。いや正直覚えてないんだが、状況証拠から考えて、そうだったとしか思えない。そのカウントダウンがあるからこそそれが時限爆弾だとわかったのであろうし、カウントダウンがあるからこそ、右京さんはギリギリで地下抗(?)に飛び込めたのだろう。これを仕掛けた人は、どうしてそんなわかりやすい、「見える」タイマーを付けたのだろう。何故わざわざ数字を表示し、わかるようにカウントダウンを見せるのか。

閉じ込める理由も、閉じ込める仕組みも疑問だ。先に来ていた本仮屋ユイカは、当然ドアから入った(1)のだろう。そこへ右京さんも駆け付け、同じドアから入る(2)。さらに遅れて亀山君もやって来るが、右京さんたちは閉じ込められており、ドアは開かない。(1)ではドアはまだ開くのに、(2)の時点で、中からも外からもドアは開かなくなるわけだ。誰がどういう仕組みで何のために(1)と(2)の差をつけているのか、わからない。せっかく派手に爆発するんだから瀕死の犯人に右京さんと美少女も絡ませたい、というのはもちろんわかるし、だから閉じ込められることが必要なのもわかる。そのために「見える」わかりやすいタイマーが必要なのもわかる。そういう制作側の思惑はよくわかるけれど、その思惑に説得力の肉付けがぜんぜんない。あまりに無防備な御都合主義。

■つまらん。それにショボい。

間一髪爆死を免れた右京さんは、塩谷先輩の背後に真犯人がいると確信し、亀山君と共にマラソン大会の表彰式会場に向かう。ここにも必然性がない。マラソン大会の発起人に5年前当時の総理大臣だか外務大臣だったかがいて、真犯人はきっと大臣の命を狙うに違いない、と言うんだが、根拠のないただの勘だ。さっきのアジト爆発との関連も、その前の臨海大橋爆破阻止との関連も、いっさいない。イヤ「さっきのアジトの様子から、塩谷先輩の背後の真犯人を確信した」という意味で、ちょっとだけ関連はあるんだが、その程度だ。

例えば『24』なら、アレがああなったから次にこうなって、そのためコレコレこんなことになっちまって、そのピンチを凌ごうとこうしてみたところ、意外にもあんなものが出てきて更に混乱、一方そのころジャック・バウアーは・・・というように、エピソード同士が緊密に有機的に絡まり、もつれ、事態が膨らみつつ転がっていくじゃないですか。岡田武史好みの言葉で言えば「接近・展開・連続」だ。後で冷静に検討すれば脚本の不整合なんかもけっこうあるんじゃないかと思うが、その展開のスピード感に引っ張られて、観てる間、不自然さをほぼ全く感じさせない。この映画みたいに、スタート地点に塩谷先輩を発見して膨大なランナーの海をかき分けながら追いかけっこして確保を目指すが失敗してそれはそれで終わり、次に、それを待っていたかのようなタイミングで棋譜の謎が解け、臨海大橋へ向かい、爆破を阻止したらそれはそれで終わり、次に、それを待っていたかのようなタイミングで少女から電話が入り、その新たな情報で次はアジトへ、アジトが爆発したらそれはそれで終わり、次に右京さんの勘で表彰会場へ、というんじゃ、展開も興奮もあったもんじゃない。そこにはAがあったからこそBがあり、そこを経たからこそCにつながった、という程度の関連すら存在しない。

そして表彰会場で、大臣に向かって歩く不審な男を発見し、確保。マラソン大会の表彰はゴール地点である陸上競技場でやるのが自然だと思うが、それだと発見から確保までをスムースに描くのがむずかしい、と思ったのかも知れない。

勘でなんとなく表彰会場に行き、見渡すと犯人が目に入る。亀山君っ! と小さく叫んで指差し、確保。つまらん。捕まえるまでの経緯に、ヒネリもハラハラドキドキも、遂に逮捕にこぎ着けたという達成感も謎解きのカタルシスも、なんにもない。勘でなんとなく行った場所で、見渡すと犯人が目に入り、確保。話のマクラとしてならともかく、1時間以上引っ張ったクライマックスがこれか。「膨大なランナーの海」→「臨海大橋爆破か」→「アジト爆破」→「静かに地味にひとり確保」と、エピソードを追うごとにスケールダウンしてるのがまた珍しい。捕まえてみたら真犯人は意外な人物だった、というヒネリは一応あるんだが、それとて、あっと驚くような鮮やかさではない。






そして、捕まえてみた真犯人の持つ拳銃に、弾は入っていなかった。






つまり、マラソン大会を狙った犯罪計画の全貌は結局こうだ。まず臨海大橋を狙って爆弾搭載モーターボートを仕掛ける。だがもともと爆破の意志はなく、回りくどいなぞなぞで予告し、爆破を回避させる。なぜ回りくどくするのかは謎のまま。爆破の意志がないのに何故そんなものを仕掛けるのかも謎のまま。次に表彰式会場に向かい、大臣を狙う。だがもともと殺す意志はなく、拳銃に弾は入れてなく、わざと怪しい動きをして捕まる。知力を駆使した複雑な計画なんだが、知力は何故かひたすら、チェスに絡めたなぞなぞ作りにのみ傾注され、現実の事件計画はずいぶん単純で、しかもあらかじめ未遂に終わらせる計画だ。ショボい。さっきも書いたが、そんな回りくどいことをせずに自首すりゃあいいじゃないか。映画のサブタイトルは『絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン』。その骨格を成す事件の全貌が、「こんな回りくどいことをせずに自首すりゃあいい」ていどの話なのである。なんという下らなさ。

連続TVドラマシリーズ『相棒』はもともと、扱う事件のスケールが各回ごとにバラバラ、という自由さが持ち味だ。だからショボさ(下らなさ)自体はいいと思う。だがそれなら、犯人の陽動に乗せられて標的は数万人だなんて大騒ぎしたけれども、結局ずいぶん地味な計画だったんですねえ、やれやれ、みたいに含み笑いしながら紅茶を飲んで、ショボさの軽妙な味を醸し出すのがお約束だろう。観てるこっちとしてはせめてそういうカタチで、劇中人物たちと肩透かし感を共有したい。ところが右京さん始め劇中人物は誰1人このテロ未遂計画のショボさに言及することなく、それどころか深刻な顔で、事件の背景の重さを説明的にアピールする。そのため観客だけが、ショボさの中に淋しく取り残される。

■それにしても。

それにしても、ショボく軽妙なテロ未遂計画のそのまた前置き、みたいな位置付けで殺された3人は気の毒と言うほかない。当時の世間のバッシングが如何に理不尽だったとは言え、当時テレビ番組の中で青年の行動を批判した、というだけの理由で殺されるのである。なんという理不尽。世間を憎む気持ちはわかるが、別にその3人が世間を代表してるわけでもないのに。彼らが殺害されるまでの当日の行動はどうのこうの、といった捜査過程すらほとんど描写されず、まさにコマ扱いの死。その一方で、当時の大臣に対してはずいぶん盛り上げた割に、実はもともと殺す意志がない。そして、身代金目的で青年を拉致し理不尽に射殺した当の犯行グループに対する怒りは持っていない。この犯人のバランス感覚が、どうもよくわからない。
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by nobiox | 2008-06-25 16:40 | ├映画 |
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