カテゴリ:├映画( 42 )
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「愛のむきだし」
★★☆☆☆……ちょっとおもしろい。

「敬虔なクリスチャンの3人家族。僕が小学生のとき、母は病に倒れ、天に召された。それから父は一層信仰に傾倒し、僕が高校生のとき、ついに神父となった。そんな父が、恋に落ちる」と、いうのが導入部のシークエンス。どうです、いい話でしょう。例えばクリント・イーストウッドがこれを撮れば、なにげない会話と日常風景の細かい襞に人生の陰影と希望が幾重にも織り込まれた、上等な、美しい映画になるはずだ。園子温はそうはしない。エロ・グロ・扇情を過剰に盛る。デフォルメされた感情表現、学芸会みたいな血しぶき、強烈なキャラとギミックとギャグテイスト。たしかに独創的だ。こんな映画は観たことない。そして、面白い。

「自転車吐息」も「紀子の食卓」もひたすら退屈としか思えなかったが、これは紙芝居のごとく説明的な描写で一連のできごとがぽんぽんと進行し、ネタはいちいちマンガ的で、退屈しない。また、説明的であることを、この監督は恥じない。説明が足りないと思えば臆面もなくモノローグで説明する。

こんな映画は観たことないと思う一方でどこか既視感もあり、「奇跡の出会い」の喧嘩の場面まで来て、気付いた。これは映画としては珍しいかもしれないが、小劇場の演劇だと思って観ると、割とありふれたテイストだ。あるいは、マンガ。羽生生純とか、しりあがり寿とか。

ずいぶん人気があるようで、何度TSUTAYAを覗いてもすべて貸し出し中になっている。そのせいでまだ上巻しか観てない。まあとにかく女子高生は可愛いしエロいし、2時間は退屈しなかったので、ある種の名作ではないか。Amazon の低評価のレビューを読むとほぼ全員が「後半の展開にがっかり」らしいので、この先あまりいい予感はしないけど。
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by nobiox | 2012-02-27 14:23 | ├映画 |
「風と共に去りぬ」
1939年 / 監督ヴィクター・フレミング / ヴィヴィアン・リー / クラーク・ゲーブル

あまりにも予想と違う映画だったので唖然呆然。まず、主役がチョーいやな女である。知ってる人には常識なんだろうけど、知らなかったので驚いた。数十年越しの大恋愛が実る正統派の感動叙事詩かと思ってたら、それも違う。キスシーンが何度かあるけど、クライマックスっぽい感動のキスはひとつもなく、ぜんぜん盛り上がらない。数十年越しの大恋愛が実って結婚するならせいぜい感動的に盛り上げればよさそうなもんなのに、「別に世界一愛してるってわけじゃないけどいちおう結婚しようか君の旦那も死んだことだし」みたいな台詞をわざわざ言わせる。なんなんだ。

チョーいやな女が歳月を経て人間的に成熟する話かというとそうでもなく、終わりまでほぼ性格変わらない。強烈なエゴを持つ上流階級の女がいったん没落するが商才を武器に捲土重来、勝利を掴む細腕繁盛記、と途中思わせるがその路線も尻すぼみ。なにひとつとしてカタルシスがない。終わり方もただたださびしい。

やたらに濃い化粧、芝居めいた台詞、執拗に見せる瞳の中の星。少女漫画っぽいというか宝塚っぽいというか、特に後半のとってつけたようなエピソードの羅列がハーレクインっぽいというか。人が死ぬシーンで笑ったのはひさしぶりだ(初めてかも知れない)。しかし、じゃあつまらなかったかというとそんなことはなく、一年を通して大河ドラマを見通しましたよ的な、ずっしりした満足感が残る。あれ? ということは正統派の感動叙事詩なのか。
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by nobiox | 2012-01-06 16:35 | ├映画 |
「マイレージ、マイライフ」についての町山智弘の解釈が珍しいように思える
ネタバレありです。




「マイレージ、マイライフ」についての町山さんの解釈(Total 3分40秒)
リストラ宣告人なんていう仕事よりも、家族の幸せをとった方がいいんじゃないかということで、悩むんだけども、でも最後やっぱりねえ、家族を捨てて、リストラの仕事を続けるんですよ。で、どうして続けるかってことに関しては、言葉では語られてないんです。だからそれはみんながそれぞれ思えばいいんだけども、

ただ俺がすごく思ったのは、例えば、若い頃はね、映画が作りたかったですよ。漫画家にもなりたかったのね。でもいまこの年齢だと、何がいちばん自分でできるのか。っていうと、ひとつしかないんですよ。それは映画を観て、そこで映ってることを、誰よりもストレートに受け止めることができると思ってるのね。いろいろ辛いことはあるけれども、食えないし。でも、いま俺がやれる最良のことって何かと。ベストなことは何かと。いちばん、よく、できることは何かと。これなんだと。ていうふうに段々、やっと、この、気持ちが固まってきてるんですよ。ね。そういう決意を、する、っていう、話なんだよね。

リストラ宣告という仕事に関して、凄く悩むんですよ。ジョージクルーニーがね。だけど最終的にその、リストラっていうことで俺は、じつは、ある役割を果たしているんだということに気付くんだよ。で俺は、これを、いちばん誰よりもうまくできると、いうことに気が付いていくわけですよ。そのためには俺は家族の幸せっていうのは、持てない人間なんだと。これが俺の、仕事なんだということで、踏み出して行くのね。そういう選択をする話っていうのも、あるんだよ。あっていいんだよ。

いやいやいやいや。待ってくれ。ライアン・ビンガムは、家族を捨ててなんか、いない。女と家族になろうと思い定めて(かどうかまではわからんけど、かなりそっち寄りの甘い気分で)訪ねて行ったら、なんと、独身貴族を自称してた女が、子持ちの人妻だったんだよ。いつものキメキメスーツとは違う、ダサイけど暖かそうなセーター姿で。

仕事に生きる、気ままでスカした独身主義者の男が、家族のぬくもりに目覚めて暖かいハッピーエンドへ向かう、のかと、いったん観客に思わせといて、ありゃ残念でした、という。これ、男女逆なら世間でよく聞く話ですよ。独身だと言ってた彼氏に妻子がいたの、キーッ、というね。その逆を、愛らしい幻想をみじめに砕かれる男を、当世一の伊達男に演じさせてちょっぴりおかしくてほろ苦い、という映画ですよ。

ライアンが捨てたんじゃない。振られたの。それで落ち込んでひとりで酒を飲むの。そんなタイミングで1000万マイル達成して、空しさを味わうの。さらに若い新入社員も会社やめちゃって、もう、相変わらずの仕事をひとりで続けるしかないの。以前は無縁だった孤独や哀愁を、かすかに帯びながら。自分で主体的に仕事という道を選び取ったわけじゃないし、その代償として家族を捨てたのでもない。誰が観てもわかる。

◆◆

たぶん「家族を捨てて」というのは、町山さんのちょっとした誤解、あるいは誤表現だろう。口がすべっただけだ。大したことじゃない。「家族を捨てて」を「家庭という幸福を諦めて」と聞き替えれば済むことだ。そうしよう。

◆◆

それでも、どうしても、違和感は残る。例えば「リストラ宣告人なんていう仕事よりも、家族の幸せをとった方がいいんじゃないか」なんて葛藤は、映画のどこにも描かれていない。会社のIT化路線がうまく行ってれば、出張ゼロになるはずだったんですよ。その条件の上では、仕事をとるなら家庭は持てない、なんてことはないはずだ(結果的にIT化は頓挫するんだけど、それは、女に振られた後だ。家庭という幸福を諦める原因に、なろうはずがない)。

「リストラ宣告という仕事に関して、凄く悩む」というのは、どのあたりを指しているのか理解できない。仕事をやめようかと考えるシーンも、仕事に疑問を感じて苦悩する、というシーンも、どこのことなのか僕にはわからない。唯一わずかにそれらしいのは、ある自殺について聞かされた時だけど、それも女に振られた後だ。だから、「その後で自らの天命に気付いて仕事の方に踏み出し、家庭という幸福を諦める」という解釈はあり得ない。

自分が「ある役割を果たしているんだということに気付」き、自分の仕事の価値に目覚めるシーンというのはたぶん、妹婿に対する説得を指すのだろう。確かにそういう取り方もできる。だけどあれは同時に、家族の価値に目覚めるシーンでもある。

「これまでの人生で最高に楽しかったことを思い出してみて」
「…………」
「そのとき、君はひとりだったか?」
「……いや、そう言われてみると、違うな」
「ゆうべはひとりで不安に押し潰されそうだった?」
「ああ」
「誰かにいて欲しかった?」
「…………」
「人生というフライトには、副操縦士が必要なのさ」

僕の感覚では、この映画の最大の見せ場だ。「これまでの人生で最高に楽しかったことを思い出してみろ」「そのとき、君はひとりだったか?」・・・感動して、軽く鳥肌立った。リストラ宣告っていう仕事にもポジティブな価値があるんだな、という感動ではない。町山さんが言う「家族か仕事か」という二項対立の図式で言うならば、逆だ。おお、言われてみればそうだ、オレの人生が最高に輝いた瞬間、いつも誰かと一緒だった、確かにそうだ、人生にはパートナーが必要なんだ、という気付きの感動だ。

また、こういうことも言える。彼は相手を納得させるためならば、誠実そうな仮面をかぶり、舌先三寸の美辞麗句を平気でさえずる男だ。その、氷の心を持つ男が説得のためにひねり出した心にもない台詞が、不意に男自身に響く。自分の言葉が、自分の心を照らし、自分の心を溶かし始める。その瞬間に立ち会う感動だ、と。

もちろん、僕が個人的にそのシーンをそういうふうに感じたからといって、「リストラ宣告っていう仕事にもポジティブな価値があるんだな」という受け取り方を間違いだとは思わない。ただ、その後の流れはどうか。このあと仕事に前向きになる、という展開にはなってない。このあと彼は人のぬくもり、人との深い関わりを求めていき、失恋して、涙を流す。その後、若い新入社員も会社やめちゃったと聞かされて、さらに傷心する。

◆◆

ちなみに監督はDVDの音声解説でこう語っている。ラストシーンの意味についてよく聞かれる。掲示板を見上げるライアン・ビンガム。彼はどこへ行くのか。カバンから手を離すショットは何かの暗示か。あの目は何が言いたいのか。正解は僕も知らない。観た人の半分はこう考える。彼は飛行機に乗り、元の人生に戻ると。残りの半分は、彼はどこかで誰かと幸せな家庭を築くと考える。どちらも正しい。それが僕の目指した形だ。

(私家版)『マイレージ、マイライフ』の一解釈をめぐる映画評論家町山智浩(@TomoMachi)と@my_yoursの議論というページの存在をいま知った。そこで町山さんは「全米6割の観客は(僕と同じく)クルーニーは仕事を続けた、と受け取った。4割は家庭を取ったと解釈した。僕の方が多数派」とおっしゃってるみたいだけど、それはどうかなあ。僕の想像ではその6割のほとんどは「消去法で仕方なく寂しく仕事に戻った」という解釈であって、町山説みたいな「天命に目覚めた」解釈は珍しいと思うんだけど。もちろん、珍しいのは悪いことではないが。
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by nobiox | 2011-09-18 12:19 | ├映画 |
「ハート・ロッカー」についての町山智浩の解釈が奇抜過ぎる
(後付けの要約)
この記事はあまりにも冗長だと、反省しております。まあこの記事に限らない私の欠点ですがー。この記事の要点はみっつ。

その1:ジェームズの仕事が反戦、というのはいくらなんでもおかしい。彼はプロフェッショナルな態度でバンバン敵を殺すし、そのことを誇りに思うプロフェッショナルな兵士だ。そういう男の仕事が反戦、というのは、プロフェッショナルな捕鯨漁師の仕事が反捕鯨、というくらいにおかしい。

その2:ジェームズが戦場に戻る理由が反戦、というのもいくらなんでも根拠が薄い。

その3:町山さんは「自分の感性は信じない」と、かねがね公言している。自分の言いたいことよりも作り手の言い分を上位に置くという、まことに謙虚な姿勢の表明だ。だが。町山さんはそれを実践してるのだろうか。音声を聞く限り、心を無にしてとりあえず謙虚に宇多丸君の言い分を知りたい、聞いてみたい、聞き出したいという心がけの人には思えないのよ。いや、オレの感性ではね。町山さんは「監督の言うことは絶対」と言うけど、この様子じゃ監督と対談しても、この人には「自分の聞きたい意見」「自分の思い込みに沿った解説」しか聞こえないんじゃないか、そんなら結局自分の感性を信じてるってことじゃないのかと、心配になってしまう。以上、要約終わり。

◆◆











何度も聞こうと思い、あまりの面倒臭さに何度も挫折した「ライムスター宇多丸と町山智浩がハート・ロッカーについて議論してるらしい Pod Cast Part1, 2, 3」を、ようやく通して聞いた。一方は人の話聞く気が全然ないし、一方は「イヤそこは僕はそうは言ってない」とか「いやそれは勿論わかってる、わかって、わかった上でね」とかの連発で、ひじょーにつまらん。そこを乗り越えて聞きました。ネタバレありです。

町山さんの解釈:
まず、イラクのテロリストの標的を米軍だと考えるのは典型的な間違い。テロリストの目的は選挙妨害。そのためにイラク国内を、とにかく混乱させたい。だから標的はイラク人。新聞読んでりゃそれくらい常識。それと、ジェームズ(主役)の仕事を戦争屋と見るのも根本的に間違い。彼の仕事は爆弾の解体。彼の仕事は「戦争」じゃなくて「戦争の解除」。要するに「反戦」が仕事。

主役は爆弾処理に関して完璧で剛胆で自信満々で全能感を持ってて何も考えてない腕自慢として登場する。それが後半で酷い惨めな失敗を何度も重ねて自らの限界を知り、疑問を持ち、自信を失い、罪悪感にまみれ、自己嫌悪に陥り、崩壊する。つまり、考える人になってしまう。つまり、精神的に大きく成長する。失意の中、いったん帰国する。

が、やはり、オレがやらねば。オレの爆弾の解体の能力を、活かさねば。イラクの惨状を放っておくことはオレにはできない。誰も褒めてくれないかも知れないけど、イラクの子供達はオレを石もて追うかも知れないけど、わかってはもらえないかも知れないけど、それでもイラクの人々を救うために、オレがやるんだ。ラストシーン、ヘリコプターに乗る主役の胸にあるのは崇高な、と言って悪ければ前向きな、使命感。それと、エンディングの曲の歌詞から見ても明らかな通り、イラクにこんな悲惨な状況をもたらしたブッシュ政権に対する強烈な怒り。

全体としては、挫折を経て人間的に成長し、天命に目覚める男の物語。あれを見てこのように読み取れないヤツはバカ。あるいは無知。この見方が唯一の正解。

・・・新聞を読まない僕にとっては勉強になる部分も多いが、映画については違和感ありまくりだなー。爆弾の解体は確かに人命救助かも知れんけど、ジェームズ(主役)は最初から最後まで、敵を撃ち殺すことになんら痛痒も疑問も感じない男だ。敵を殺せば誇らしく思い、味方が傷付けば胸を痛める。敵は敵、味方は味方。彼は終止、その枠組自体を疑うことはない。「何故オレたちは敵味方に別れて争ってるんだ」なんてことは一度も考えない。典型的な兵士だ。反戦的な仕事だなんて冗談じゃない。さらに変化とか成長とか自信喪失とか罪悪感とか、そんな描写どこにあるんだ。

軍医が爆死して主役は大ショック、と町山氏は言うけど、泣きわめいて大ショックを表現してたのはエルドリッジだ。主役はエルドリッジをなだめて淡々と「もう彼は死んだ」と言う。

その後、主役はエルドリッジを撃っちゃって大自己嫌悪、と町山氏は言うけど、そんな描写もない。たしかに前半は快調で、後半、次第にストレスや失敗が多くなるけど、それはサスペンス映画の常道でしょう。ストレスが多くなれば暴れたり、無口になったり不機嫌になったりするでしょう。それを「自らの限界を知り、疑問を持ち、自信を失い、罪悪感にまみれ、自己嫌悪に陥り、崩壊する」って、どこがそれを表現してるシーンなのか教えて欲しい。シャワー浴びながら嗚咽を漏らすシーンか。確かにそういう見方も可能かも知れない。しかし、「不機嫌になってる」という見方だって可能じゃないか。僕はそう思って観てました。主役は、病院送りされるエルドリッジを見送りに来て、こう言う。「半年で直るならいい方だ」。どう見ても考えても、味方を撃っちゃって大自己嫌悪してる人間の台詞じゃない。オレのおかげで病院送りになって、おかげで死なずに済む。よかったじゃないか、くらい思ってそうだ。実際にエルドリッジの最後の台詞は、クソ砂漠とおさらばできることを喜ぶものだ。乱暴に言えば、彼は撃たれた結果を喜びつつ砂漠を去ったのだ。

◆◆

終盤、爆弾巻かれたお父さんを救えなくて「ごめんなさい。すまない、わかってくれ」って言うところが変化だ、それまではそんな人間じゃなかったのに、と町山氏は言うけど、「それまではそんな人間じゃなかった」なんて描写は、いっさい存在しない。
 コッポラの「マリー・アントワネット」に、王妃が立ち上がって拍手をするけど誰も同調しない、という印象的なシーンがある。かつてはそんなんじゃなかったのに。「かつてはそんなんじゃなかった」というシーンが「マリー・アントワネット」には実際にあるのよ。つまり、王妃が立ち上がって拍手するシーンが2度ある。その落差が、観客に変化を印象づける。一方「ハート・ロッカー」には、「かつては同じ状況でも謝ったりしなかった」なんて描写はない。

町山さんの主張に従えば、もしジェームズ合流後の最初のミッションが「あの爆弾巻かれたお父さん救出」だったら、ジェームズは謝ったりせず、というか逃げないんだから謝る理由はないんだけど、死ぬってことを考えてないのでタイマーのリミットなど気に掛けず鼻歌混じりに作業を続け、逃げず、結果としてお父さんと一緒に爆死して、そこで映画は終わってたはず、この見方が唯一の正解、ということになるんだけど、なんでそこまで言えるんだか理解できない。町山氏がエスパーの如き感受性でそう感じた、というだけじゃないか。自信家でもジャンキーでも普通は逃げる。根拠はオレの感性ね。

町山さんが町山さんの感性で僕とは違う物語を感じ取るのはいいし、それを説明してくれるのも歓迎するけど、俺の見方が正しくてこれと違う見方は間違い、とまで言わずにおれないらしいのは、何なのか。そこまで焦らなくてもいいじゃん。蓮實重彦なら、そんな中学生みたいな言い方はしない。言いたいことが同じだとしても、もうちょっと、何かこう、独自の愉快な言い回しを発明するはずだ。「間違いと言わざるを得ないと言うとすればそれはさすがにいささか言い過ぎかもしれぬと心配する程度の分別は私と謂えども備えているつもりではあると謂うこともまた可能なのであるだがそれでも映画の上映は否応なく終わり、残酷な照明が場内に灯ることを止めるすべなど存在しようもないのだ」とかなんとか。そもそも「自分の感性をいっさい信じない」のが町山さんのポリシーじゃなかったのか。

このシーンの後、「お前はよくやってられるな こんな危険な賭けを」とサンボーンに聞かれて、ジェームズはこう答える。「知るかよ 俺は... 何も考えてない」
 直後、彼は清潔で平穏なアメリカの日常の中にいる。素直に受け取るなら「最初何も考えてなかった主役は、戦地を離れる間際もやっぱり、何も考えてない戦争ジャンキーだった」と見るべきだろう。ただ、「なあ、なんでオレはこうなんだろう」と、葛藤は見せる。ドラッグをやめたいのにやめられない男のように。
 そして「オレの好きなものは、もう、ひとつしかない」。直後に響き始める、緊迫した戦場の重低音。素直に受け取るなら「もう戦場の緊迫感に麻痺しちゃって戦争しか好きになれない哀れな戦争ジャンキー」だろう。

このとき主役の胸中にはブッシュ政権に対する強烈な怒りがある、と町山氏は言うけど、その根拠はただひとつ、「このときかかる曲の歌詞の内容がアンチブッシュだから」だって。んな阿呆な。

「歌詞の内容がアンチブッシュだから、監督の内心のメッセージは明らか」と言うのはわかりますよ。だからといって「主役の胸中は明らか」とはならんでしょう。主役は何にも考えてないんだぞ。だって自分でそう言ってるじゃない。この世で好きなものはもう戦争だけなんだぞ。だって自分でそう言ってるじゃない。こういう何も考えてない、思考の麻痺した男たちを生み出すから戦争は怖いですね FUCK YOU ブッシュ、というのが、常識的な受け取り方じゃないの。

◆◆

ところで、対談のPart1の17分30秒、町山氏はこういう趣旨の発言をしている。「『オレは何も考えてない』と言ってた主人公が、爆弾巻かれたお父さんを救えなくて、逃げちゃう。以前は考えてなかったのに、ここで考えちゃうわけ。逃げるっていうのはそういうことでしょ。それまではそういう人間じゃなかったのに」。
 よくわからないけど、もしかして「爆弾巻かれたお父さん」のシーンと「オレは何も考えてないよ」のシーンの前後関係を誤って記憶してるんじゃなかろうか。それとも、彼が観たバージョンと僕が観たバージョンで、編集が違うのか。少なくとも僕の観たDVDでは、「爆弾巻かれたお父さんを救えなかった」が先で、「オレは何も考えてないよ」がその後なんだけど。

◆◆

ライムスター宇多丸さんの言い分:
 最後のシーン、戦争が好きだから、戦争ジャンキーとして、戦地に赴く。その描写がねえ、何か、勇ましいの。肯定的に描いてるようにも、見えちゃう。なんかこう、思考停止のススメと言うか。

多くの恐怖ハラハラ戦争アクション映画は、多くの戦争嫌いな人には強烈な反戦映画に見え、一部の戦争嫌いの人には「戦争バンザイ映画だ」と批判され、戦争好きな人には確かに実際に高揚感を与える。「プライベート・ライアン」だって「フルメタル・ジャケット」だってそうだ。同じようなことはたぶん、殺人鬼の映画にだって強姦魔の映画にだってヤクザ映画にだって銀行強盗映画にだって言える。スリルを描く以上、それはしょうがないと思う。

例えば「チョコレート・ファイター」を観れば、男女を問わず、誰でも多少はアドレナリンが出るでしょう。そのとき呼び醒される気持ちは、原初のマグマは、暴力というものに対して、肯定的なものでしょう。例えば「地獄の黙示録」のワルキューレ(だっけ? ブババババババッとヘリが編隊で飛ぶところ)のシーンだって、今日30年ぶりに YouTube で観たけど、正直僕は、30年前と同じ高揚感を覚えましたよ。それは、戦争というものに対して肯定的な高揚感だと、認めざるを得ない。言い訳したくても、自分で、それ以外の解釈を思いつかない。どんな戦争映画でも犯罪映画でも、そこにちょっとでも格好良さがあれば、「見方によっては賛美してるように見えちゃう」はずだ。

宇多丸さんすらも「砂漠の長距離銃撃戦スリリングでギザかっこよす萌え萌え。映画史に残る名シーン」と感想を述べている。「見方によっては賛美してるように見えちゃう」と言ったところで、そりゃあなたご自身も殺し合いシーンをギザ賛美して下さいましたもんね、愉しんでいただけたようでうれしいわ、と言われちゃうんではないか。

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内田樹は、20世紀の政治史を振り返るとわかることだが、スターリンも、ヒトラーも、毛沢東も、ポルポトも、フセインも、カダフィも、「国民の圧倒的多数の支持を得ていた政治的意見」の上に立っていた。と述べている。認めたくないことだが、たぶん半分以上のは事実だ(ポルポトはそんな圧倒的多数の支持を得ていたのだろうか。ほんと? よく知らんけど)。「無辜の民は誰もがいつも平和を望んでいて、一部の邪悪な権力者がそれを歪める」と考えるよりも「正直、オレらの中には暴力衝動も暴力賛美もナショナリズムも、元々多少はあるよ。だからこそそれをうまくコントロールする必要があるのよ」と自覚しておいた方が、安全なんではないか、だって現実にそうなんだし。僕は太平洋戦争についても、「無辜の民が邪悪な軍部に(あるいは天皇に)踊らされた」式の理解をする人は、あまり信用する気になれない。いや、いちいち文章長くなって恥ずかしいんだけど。

◆◆

戦争とは爆弾を落とすものだ。アメリカは世界中に爆弾を落としまくった。ところが「ハートロッカー」のヒーローは爆弾を無力にする男だ。このアイロニーに気付かず、彼を人を殺す兵士として見るのはたいへんなミスだよ。

話題が軍医についてであれば、軍医ってどこか逆説的でアイロニカルな存在だと、なんとなくだが僕も思う。しかし爆弾処理班の存在がアイロニカルだというのは、何度考えてもピンと来ないなー。町山さんの感性では互いにノーガードで攻撃に専念するのが本来の戦争のあり方で、ヘルメットも防弾チョッキも、戦車の装甲もアイロニカルなのだろうか。

「野球とは点を取り合うものだ。ところが星飛雄馬は得点を阻む男だ。このアイロニーに気付かずに『巨人の星』を語るのはたいへんなミスだよ」「野球とはバットで球をしばき上げるものだ。ところが大リーグボール1号は球をバットに敢えて当てることでバットを無力化し、大リーグボール2号は視界から消えることで、大リーグボール3号はバットを避けることでバットを無力化する。以下同文」と、町山さんなら言うのか。それはそれでおもしろい見方だとは思うけど、ジェームズは、現に、何人も何人も敵を殺す兵士だ。しかも、エルドリッジなんかとは違い、きわめて平然と、プロフェッショナルな態度で。しかもエルドリッジと違い、ジェームズはマッチョ自慢の男である。エルドリッジのことを「存在自体がアイロニカルな兵士」と呼ぶなら理解はできるが、ジェームズは違うでしょう。彼は自らの肉弾戦での強さにも、ナイフでの戦いにおける強さにも、銃撃戦における強さにも、知略における強さにも、強烈な誇りを持っている。

プロフェッショナルな態度で、平然と、何人も何人も敵兵を殺すマッチョ自慢の兵士のことを、人を殺す兵士として見るのが、たいへんなミスなの? アホか。

何をアイロニーと感じるかどうかって、どんなギャグを面白いと思うかと同じく、感覚の問題じゃなかろうか。自分と違うからと言って「たいへんなミスだよ」とか言うようなもんじゃないと思うんだけど。「たいへんなミスだよ」だって。だっせー。(弾道弾迎撃ミサイルがアイロニカルだというご意見であれば、僕もなんとなく同感です)

◆◆

僕は町山智浩さん嫌いじゃないです。尊敬してます。『ブレードランナーの未来世紀』なんてチョー名著だと思う。顔も声もしゃべりも好き。ただ、「なぜかツッコみたくなる点が多い」んですね。町山さんのツイッターとか見ててもしばしば炎上っぽいことが起きてるようなので、たぶん町山さんは「なぜかツッコまれやすい」言動の人なんじゃないかと思う。その中でも根本的に疑問に思うのは、「自分の感性はいっさい信じない」「わかんないことは作った本人に会いに行って聞けばいいじゃない」だ。


町山流「本人に聞け」主義についての疑問



仮に町山さんがキャスリン・ビグローにインタビューして「戦争とは爆弾を落とすもので、ジェームズは爆弾を解体する男だ。これは極めて本質的なアイロニーだよね」「OH,トモ、それはとっても鋭い見方だわ」なんて会話があったとしても、そりゃそのぐらい言うだろ、という話だ。宇多丸さんとの対談を聞く限り、相手の言うことを聞く気がぜんぜんなく、自分が作ったストーリーに沿う発言だけを無理矢理引き出す人なわけで、こういう人の本人インタビューなんてどれほど意味があるのかと、根本のところが心配になってしまう。

例えば「その男、凶暴につきの解説-01」「-02」で町山さんは「ジャック・タチのコメディのタッチに非常に似てる。そこがおもしろい」「音楽(サティ)の使い方はルイ・マル」と言い、「たけしさんはジャック・タチなんて見てない、と言うに違いないけど、絶対見てますよ」「たけしさんに言ってもルイ・マルなんて見てねーよバカヤロー、と言うに決まってるんですが、たぶんそう(ルイ・マルの影響)ですね」と言う。なんなのそれ。作った本人に聞いて、自分の見方と合致すれば「やっぱり僕の感じた通りでした」、自分の見方を否定されれば、「本人は否定するけど絶対そうですよ」「たぶんそうですよ」。町山さんにおける「本人に聞け」主義の適用は、ずいぶん恣意的ではないか。べつにそういう恣意的な二枚舌自体を批判する気はないが、批判したいのは、本人が自分の感性に応じて二枚舌を使い分けながら、いや僕は一貫してますよ、わかんないことは作った本人に会いに行って聞けばいいじゃん主義ですよ、自分の感性なんていっさい信じてませんよと本気で言ってるらしい、そのアホさ加減だ。

町山さんが「僕はこの映画を見てこう解釈しました。作った本人に聞いてみてもやっぱりそうでした」と発言するのを何度も何度も何度も何度も聞いたことがある。一方、「僕はこの映画を見てこう解釈しました。作った本人に聞いてみたら全然そんな意図はないと言われました。僕が間違ってました反省します」と発言するのは、一度も見かけたことがない。繰り返すが、べつにそのこと自体を批判する気はない。自分が感じたことをよりどころにするのは悪いことではない。批判したいのは、本人が自分の感性を評論活動の根本の根拠にしながら、いや僕はわかんないことは作った本人に会いに行って聞けばいいじゃん主義ですよ、自分の感性なんていっさい信じてませんよと本気で言ってるらしい、本気で言ってるくせに本気で実践はしてない、そのインチキ加減だ。

そもそも、その主義は何故、町山さんが気に入った作品にのみ適用されるのか。町山さんが映画「もしドラ」をバカにするのを見たことがあるけど、映画「もしドラ」を作った監督に会いに行って個々の設定なり場面なり展開なり配役なりの意図を聞いた、なんて話は見たことがない。作った本人が言うことがいちばんの真実だとしたら、そもそもこの世のすべての作品は素晴らしいんじゃないか、と思うんだが。

◆◆

「咳をしても一人」という句を「人生から自ら人を遠ざけた男が結核を病んだ死の床で孤独と向き合う」と説明すると「単に風邪かも」「なぜ自ら人を遠ざけたとわかる?」「この7字では説明が足りない」「解釈は自由だ」と言い張って自らの限界内にとどまろうとする人たちと、そうでない人がいる。

作品の成立背景と、作品をどう鑑賞するかは別の話だ。成立背景の主体は作者だが、鑑賞する主体は個々の読者だ。

「作者は自ら人を遠ざけ結核を病んだ死の床で孤独と向き合いこの句を詠んだ」という成立背景についての知識は、教養として意味あると思うし、尾崎放哉という人を知る上では非常に重要かも知れんけど、句の解釈は自由でしょう。解釈は自由ではない、史実以外は間違い、正しい解釈はひとつ、というのが町山さんの主張なんだとしたら、バカげた主張だ。この句には結核とか死の床とか出てこないからこそ、ニートとか、受験生とか、OLとか、サラリーマンとか、金持ちとか、いろんな人のいろんな心にそれぞれの角度で刺さるんじゃないか。

作品はすべて成立背景の通りに解釈しなくてはならないのだとしたら、ゴッホの生涯を知らずにゴッホの絵を見ることは無意味で、桑田佳祐の人生年表と当時の音楽情勢を知らずにいとしのエリーの真価はわかりっこない、ということになる。そんな聞かれ方を桑田佳祐は、あるいは尾崎放哉は、あるいはキャスリン・ビグローは、望むだろうか。料理をうまいとか不味いとか言う前に、作った人の主義主張をいちいちインタビューしなくてはならないことにもなるし、コントを生で見ても、おもしろいかくだらないか判断する前に、スマホで検索してWikipediaで芸人の生い立ちを調べなくてはならないだろう。町山さんが自らにそういう縛りを課すのは町山さんの自由だが、他人に同じ流儀を求めるのはちょっとどうかと思う。で、町山さんが自らにそういう縛りを課しているのだとしたら、映画「もしドラ」を作った監督に話を聞かずに映画「もしドラ」をバカにするのはどういうことなの。つか監督本人は「内容には自信あります大傑作です」と言うに決まってるんだから、「僕が間違ってました本人に聞いたら大傑作でした」と言わなきゃならんと思うんだけどそれは。ああ長くてクドくてすみません。
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by nobiox | 2011-09-18 11:57 | ├映画 |
「バベル」(2006アメリカ/142min.)
★★★……………意外におもしろいですよこれ。

そう言えばこの前「バベル」を観た。モロッコで羊飼いの少年がライフルでバスを撃つところから物語が動き始める。この時点ですでに20分。もうね、バカかと。ふざけんなと。死ねよと。

例えば「スティング」だったら、冒頭で不景気でどんよりした都会が背景として描かれ、暗黒業界の暗躍ぶりも軽く見せられ、ひったくりに会った黒人をたまたま通りかかった白人2人が助け、と思ったらこれとこれはグルであれはカモで、という鮮やかに(でもないけど)金を巻き上げる手口が描かれ、その獲物が数えてみたら異常な大金で、はしゃいだレッドフォードは女を誘って散財し、アジトに顔を出すとコンビの黒人が引退を宣言し、夜の街を歩いてると顔見知った刑事に止められ、お前マフィアの金に手を出すとはいい度胸だな、オレが指したらお前はおしまいだと脅され、と、はい、このあたりでようやく20分ですよ。20分あればこれだけのサービスが可能なのだ。キューピー3分クッキングなら6回放送してもまだ2分余る。20分経ってやっと始まるってどういうことだよ。寝ろということか。オレに、寝てくれと。

◆◆


バベル 143分

スティング 129分
ローマの休日 118分
エイリアン 117分
ブレードランナー ファイナル・カット 117分
アメリカン・ビューティー 117分
マルコヴィッチの穴 112分
蛇イチゴ 108分
ファイナル・デスティネーション 98分
運命じゃない人 98分
ストレンジャー・ザン・パラダイス 90分
REC 75分

言いたいことがおわかりいただけるであろうか。
自分の作る映画、または芝居が2時間よりはるかに長くなりそうなとき、
作者はこう自問すべきだ。これは「ローマの休日」より、はるかにおもしろいのか? と。
「ショーシャンクの空に」は142分だが、あれは隅々までおもしろいから気にならない。

と、まあ、文句はあるけど、けっこう面白かった。出だしを大きくカットし、日本編(他の部分とほぼまったく無関係)を全部カットすれば、80分前後の名作になったんじゃなかろうか。
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by nobiox | 2011-08-11 20:57 | ├映画 |
「チェイサー」(2008韓国/125min.)
★★★……………おもしろかった。怖さを期待してはいけない。

ダークなトーンの社会派クライムサスペンス。かと思って観ていた(20分)ら、
戦慄の、緊迫の、狂気の猟奇連続殺人の、ホラーの邸の話だった。

と、思ったら、犯人はなんとあっさり警察に捕まり、あっさり殺人を自供する(40分)。実話の映画化だそうだが、なんという意外な展開だろうか。ヒッチコックもびっくりとはこのことだ。
しかし犯人は、自宅がどこなのか思い出せないと言う。そこから始まるじりじりしたまだるっこしい探索劇。怒号はたくさん出てくるが、血も凶器も恐怖の叫び声もぜんぜん出てこない。イライラする。しかし飽きない。そぼ降る雨。とにかくなにかと湿度が高い。犯人役のハ・ジョンウは「家族ゲーム」の松田優作みたいな、「池袋ウェストゲートパーク」の窪塚洋介みたいなイッちゃってるおとぼけ感が魅力的。子役も素晴らしい。韓国映画のレベルの高さを改めて思い知る。映画版「踊る大捜査線」とか「相棒」なんて、これに比べたら幼稚園並だ。

それにしても「自供してる上に自供に信憑性があり、前科もあり、現住所と現職業が不明」な容疑者を証拠不充分で釈放するなんてことが、本当にあるんだろうか。救いのない無惨な結末は血しぶきたっぷり。エンディングは演歌風。
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by nobiox | 2010-09-04 19:38 | ├映画 |
「暗くなるまで待って」(1967/107min.)
★★★☆……………おもしろかった。怖くはない。

ある紳士が、空港で見知らぬ女から人形を預かる。じつは人形にはヘロインが詰まっている。女は空港で敵だか味方だかの包囲を突破するために無理矢理ブツを人に押し付けた模様。紳士はカメラマンで、名前はサム・ヘンドリックス。その妻スージー(A・ヘップバーン)は、1年前の事故で目が見えない。

c0070938_15183873.jpgヘンドリックスのアパートを突き止めたマイク、カリーノ、ロートの悪者3人組が、ヘロインをとり戻すべく人形を探すという話。この3人の作戦はスージーが盲目だということを利用してるんだけど、しかしなんだかもう、異様にまどろっこしい。まず、サムに架空の仕事の依頼をして引き離す。ひとり残されたスージーの元に、マイクが夫の旧知の友人を名乗り訪ねてくる。入れ違いにロートが「サムの不倫相手の舅」を名乗り怒鳴り込んできて暴風のように寝室を家捜しする。入れ違いにマイクが「荷物を忘れた」と言って戻ってくる。スージーの話を聞いたマイクは警察に(と偽って)電話する。刑事を装いカリーノ登場。今朝近所で発見された若い女の死体と、サムとの関係をほのめかす。入れ違いにロートがひとり二役で「サムの不倫相手の夫」を名乗って訪ねてきて、先ほどは父がご無礼なことを申しまして、とかなんとかしゃべりつつ、やはりサムの不倫をほのめかす。そこへカリーノ刑事から電話が入り、今朝発見された死体がロートの妻だとほのめかす。バカみたい。

そもそも「人形はサムの不倫の証拠であり、すなわちサムが不倫相手を殺害した証拠である」という架空のストーリーを奥さんに刷り込むことに、どういうメリットがあるのかわからない。そんなふうに思い込んだら、仮にスージーが人形をみつけても、素直に人に渡せないじゃん。それどころか誰にも知らせずに抹消しそうだ。くだらない芝居してないで、さっさと拷問して人形のありかを吐かせりゃいいじゃないの。

これ、元はブロードウェイで大ヒットした舞台劇なんだそうだ。なるほどねー。舞台という魔法の非日常空間でなら、たしかにシュールでコミカルで面白そうだ。映画だと芝居がかって、わざとらしい。芝居ではプラスになるわざとらしさが、映画ではマイナスになると言うか。

c0070938_15165841.jpgところで人形は、階上に住む少女グロリアが無断で「借りていた」のだった。言われてみれば出入り自由なグロリアを誰も疑わなかったのは不自然なんだけど、とにかくそう判明してからの展開はよくできていてスリリングでそこそこスピーディーで仕掛けもアイデアも面白くて、絶望に追い込まれては逆転し、また逆襲をくらい二転三転する構成も素晴らしい。褒め過ぎか。すべての電球が切れた時には冷蔵庫のドアを開けると光源になるんだなあ、なるほどね。

密室で人を怯えさせて追い込むとき、ガソリンとマッチをちらつかせるのは諸刃の剣だということも学んだ。

さらに、そのグロリアというヘンなメガネと赤いセーターの子役(Julie Herrod)が、ブス可愛くってたまらない。「アグリー・ベティ」みたいと言うか、「24」でいうとクロエみたいと言うか、いかにも歯列矯正中って感じとでも言うか。グロリアぶんで☆ひとつアップ。
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by nobiox | 2010-08-29 15:30 | ├映画 |
「サイコ」(1960/109min.)
★★……………おもしろいところも少しはありました。

現在は一ジャンルを築いているサイコ・サスペンスの元祖であり、代表作でもある。「主人公の女性が映画の前半で殺害される」という構成は前代未聞であり、公開時には観客がストーリーを追えなくなるなどの混乱を防ぐ目的から、上映途中の入場が禁止された。

歴史的な価値については知らないけど、これがそんな有り難がるほどの名作なのか。怖くもないし。「主人公が映画の前半で殺される構成は前代未聞」とか言われても、そこが前半なのか後半なのか、見てる時にはわかんないしさあ。

最後にことの次第を説明する医者が、なぜか無闇に得意満面なのが笑える。「日本での同時代における評価は低く、キネマ旬報ベスト10では35位だった」らしい。
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by nobiox | 2010-08-28 15:25 | ├映画 |
「アバター」(2009/162min.)
★★★……………おもしろかった。

何の予備知識もなく、田舎の正月の時間つぶしのために観た。もののけ姫とかナウシカとかとあまりに設定がかぶっててなんだかなー、とは思ったけど、すげーおもしろかった。時間つぶしの王道。プロフェッショナルによる、よくできたエンターテイメント。

観た後で調べて、この映画の真価は3D版を観なきゃわからんよ、とか言われてるのを知って興味を持ち、3D日本語吹き替え版でもう一度観ました。結論:3Dはどうでもいい。僕は興味ない。
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by nobiox | 2010-08-27 22:52 | ├映画 |
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999/81min.)
★……………つまらん。なんだこりゃ。

ドキュメンタリー映画を撮るために魔女伝説の残る森に入った3人の学生たちは、キャンプを張る。しかし、彼らはそのまま消息を絶ち、撮影されたビデオだけが1年後に見つかった・・・・・ 「行方不明になった学生たちが残した映像」という設定で展開されるホラー映画。キャンプ地に残るナゾの道しるべ、夜になるとテントの周囲で騒ぐ何者か。ホラー映画のお約束を繰り返しながらも、画像の粗いハンディカメラで撮影された実験的な作品。極限状態で追い詰められ、ヒステリックになる学生たち。具体的にモンスターや血のりが出てくるわけではないが、会話や雰囲気からジワッと恐怖がにじみ出てくる。低予算、少人数の映画を宣伝効果で大ヒットさせ、インディーズ映画界にも大きな影響を与えた作品。

期待はずれ。予断を持たずに観たつもりだったんだけど、予断を持ってたんだなあ。その予断(期待)が、トンチンカンだったらしい。なにかとてつもなく怖いことが描かれるんだろうと期待して観てしまった。だって「REC」についてのAmazonのレビューに、「ブレアウィッチそのまんま。これを面白いという人はブレアウィッチを見てないだけだろ」とかいうのがあったんだもん、そりゃ期待するだろ。だけど怖いことはまったく起きない、おい、もう1時間近く経っちゃったよ、いつ怖いことが起きるんだよ、とか思ってるうちに、終わってしまった。呆然。不用意に森に入ると怖い、という教訓はたしかに受け取ったが。

なんで映像がカラーになったりモノクロになったりするのかな、と不思議に思いながら観てたけど、これは「発見されたビデオテープを受け取った遺族がハクサン・フィルムズに検証と編集を依頼した結果の映像」という設定なんだそうだ。DVDの「special features」にそう書いてあった。「発見されたビデオテープそのまんま」という設定の REC やクローバーフィールドに比べて、そのつど誰が撮ってる映像なのかわかりにくくてイラつく。しかし予断を持たずに観れば、たぶん、けっこう面白いのかも知れない。
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by nobiox | 2010-08-27 22:40 | ├映画 |
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