カテゴリ:├映画( 42 )
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宇多丸師匠への私信03:「文脈」と「原初」
師匠は「映画は歴史的文脈に乗っ取って解釈すべき」派です。例えば「ウォッチメン」は原作コミックを読まずに評価しちゃダメだし、「イングロリアスバスターズ」は「オレたちにとってのタランティーノの意味」を踏まえないと評価できないし、「呪怨」は「Jホラー表現の歴史」を踏まえないと評価できない、とおっしゃいます。

いいんですよ。師匠が「僕は『映画は歴史的文脈に乗っ取って解釈すべき』派です。だからこの映画にはこう思いました」と言われるのであれば、全然いいです。でも師匠はそうは言わないんですよね。

師匠は「映画は歴史的文脈に乗っ取って解釈すべき」という価値観を、あまりにも当然視しておられます。当然視してるから、原作コミックを読まずに「ウォッチメン」に評価を下すヤツは「ダメだ」と言うんですよ。だけどその価値観ってさー、少しも当然じゃないですよ。島本和彦氏の「新・吼えろペン」の第8巻、第31話「最後のふろしき」を読んでみてください。私は「子供(つまり、何の前提も何の文脈も共有してない子供です)が、ラーメン屋でふっと読む一冊のマンガ雑誌、その子がラーメンを待つ間、楽しませれば満足だ」という価値観に、ものすごく共感します。

私が拝聴した「イングロリアスバスターズ」の評では、「タランティーノは映画の原初的歓びを再発見させてくれる」みたいなことをおっしゃってたのですが、「文脈に乗っ取って解釈する」のが、「ラーメン屋でふっと読んだマンガで何の文脈も知らずに夢中になる」のよりも原初的なんですか。そんな見解、有り得ないと思うんですが。
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by nobiox | 2015-12-23 02:24 | ├映画 |
宇多丸師匠への私信02:「おトイレどうしてるの問題」
宇多丸師匠は「アバター」について、「せっかく異文化を描くのに、例えばおトイレどうしてるの、とかいうところをきちんと描いてないのが物足りない」みたいな発言をしておられます。いやいやいや、いくらなんでもそれは言いがかりじゃないですか。まるで、「異星生物を描いた『アバター』以外の映画」にはすべて、おトイレ描写があるかのような言い分です。師匠の大好きな「スター・ウォーズ」や「第9地区」にはおトイレ描写があったのでしょうか。

そもそも「一体全体こいつらはいつ大便と小便をしてるんだ問題」は、別に異星人ものに限らず、古今東西ほぼすべての映画が平然と無視してきたものです。まあ画面に映してないだけでカットとカットの間に済ませてるんだろう、という解釈が通常は成り立つものですが、そうはいかない例もあります。

例えば師匠が絶賛する「愛のむきだし」。後半の半ば、主人公が満島ひかりちゃんを拉致して浜辺の廃バスに監禁して三日三晩を過ごす、というシーン。ひかりちゃんはその間ずっと、後ろ手に縛られています。三晩が明けた朝、彼女がぼそっと何か言い、男は謝りながら縄を解きます。何度聞き返しても判然としないのですが、たぶん彼女は「トイレ」と言ったんだと思います。三日三晩ですよ。三泊四日の四日目ですよ。下痢してない限り、三日にわたってウンコを我慢することは不可能ではないでしょうが、オシッコは無理でしょう。三日間どうしてたんですか一体全体。

これが「ミッション:インポッシブルでトム・クルーズがレア・セドゥを監禁する」みたいなスタイリッシュムービーであれば、こんな野暮は言いませんよ。映画なんだから、美男美女はウンコもシッコもしない、という設定もアリです。だけど「愛のむきだし」は、赤裸々に露悪的に真実を暴き出そうという映画じゃないですか。それであれはないよなー、と思います。

◆◆

例えば師匠が絶賛する「風の谷のナウシカ」。ナウシカはトルメキア軍に拘束され、人質としてドルクへ向かい、そこをアスベルが急襲、風の谷の部隊は腐海の底に落下。それを救うナウシカ。トルメキア王女クシャナとの緊迫の問答。さらに、腐海の蟲に追われるアスベルを単独で救出。そこで2人は流砂に飲まれ、腐海の底のさらに底に落ちる。そこの水と砂が風の谷のものよりさらに清浄なことに気付いてナウシカは驚嘆する。息継ぐ間もない大冒険の一日です。ふたりはその清浄な砂の上で一晩眠ります。オシッコどうしたんですか一体全体。

ナウシカはおとぎ話なんだから、一種の「スタイリッシュムービー」であってもいいじゃないか、という見方もできるでしょう。だけどナウシカは「生態系のエコな循環」を主題とする映画でもあるのです。直接にせよ間接にせよ、そこは逃げないで欲しかった。例えば翌朝、2人で空を飛んでる場面で、

「オレ、悪いことしちゃったのかなあ」
「なあに? どうしたの?」
「きのう流砂に飲まれて落ちて、君が気絶してる間、オレはこの船を探しに行ってたんだけど」
「うん。わかってる。ありがとう」
「そのとき砂に穴掘って、ウンコしたんだ」
「・・・」
「あそこの砂がそんなに清浄で貴重なんだとしたらさあ、オレはそれを....」
「ふふっ。だいじょうぶ。有機物は大切よ。むしろ土壌を豊かにさせる」
「そっか。そうだよな。肥料だもんな」
「そう。私もオシッコしたよ。今朝アスベルが火を起こしてる間に、岩の陰で」
「・・・え・・・あ、・・・あーっ、うん、・・・そっか。うん」
「ふふっ。やだ。そんなに見ないで」

みたいな会話があったら、グッとよくなったんじゃないでしょうか。子供は食い付くし、大人から見ても筋が通ってるし、映画マニアから見れば「おトイレどうしてるの問題」にひとつの解を与える歴史的な名シーンだし、いいことだらけですよ。そしたらエンディングの最後の最後、「いろいろあった末に腐海の底でチコの実が芽吹く」という絵が持つ背景も、ひとつ深みを増すじゃないですか。

この辺りを突っ込んで考えていると、自分としては「腐海によって浄化された白い砂」という設定自体が、ちょっと残念なような気になって来ます。砂じゃダメなんじゃないか。だって砂漠に森は育たないじゃないですか。砂よりも、「かすかに湿り気を帯びたおがくず、みたいな腐葉土」の方がよかったんじゃないでしょうか。

「あそこの土がそんなに清浄で貴重なんだとしたらさあ、オレはそれを....」
「ふふっ。だいじょうぶ。一見さらさらに見えても、微生物をたくさん含んだ豊かな土よ。排泄物は害にはならない。むしろ土壌を豊かにさせる」
「そっか。そうだよな。肥料だもんな」

みたいに。

◆◆

今のところ、「おトイレどうしてるの問題」に誠実に向き合った映画は、「トレマーズ」しか知りません。男女3人が岩の上に退避したまま日が暮れ、仕方なくそこで寝ることになり、眠る前に暗闇でそろって小便をする。いや大便の人もいたかも知れませんが、いずれにせよ暗闇の引きのショットだから見えません。ただ "I hate to be crude, but I gotta take care of some business" "Me too" "Same here" という三者の台詞で表現されてます。訳すと「(すまんが)小便するわ」「俺も」「こっちもよ」です。数秒おいて「あーっ」と漏らす控えめな男の溜息。

ところが字幕は(まあDVDにもいろんなバージョンがあるのかも知れませんが、私がTSUTAYAで借りたヤツは)「用をたしたいのに」「俺もだ」「私も」となってるんですねー。「のに」ですよ。「のに」。これじゃあ、トイレに行けないことを嘆いて尿意を我慢する、としか解釈できません。ひどい。ああ、ほんとうにひどい誤訳だ。
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by nobiox | 2015-11-01 13:52 | ├映画 |
福田里香のフード三原則
以下は「なぜ、宮崎アニメの食事シーンはあんなにもグッとくるのか?」における福田里香先生の発言要旨です。クシャナ王女のくだりだけは、里香先生言ってません。そこだけはnobioが勝手に付け加えました。この記事のためにナウシカ見返したらたまたま気付いたので。


福田里香のフード三原則
1 善人は、フードをおいしそうに食べる
2 正体不明者は、フードを食べない
3 悪人は、フードを祖末に扱う



◆◆

宮崎駿アニメにおける食描写は、単に「おいしそうな食べ物がいっぱい出てくる」という漠然としたものではない。ハヤオは、食べさせるべき人には必ず食べさせ、心が通じ合わない人とは決して一緒に食べないという、確固としたフード文法を持った希有な作家なのだ。

漫画家志望だったハヤオは、入った大学に慢研がなかったために児童文学研究会に入った。子供は性とか恋愛にまだ関心が薄いし、暴力描写は怖がるしで、彼らのハートをつかむにはとりあえず食べ物なのである。そこで彼は共通言語としての食べ物描写の重要性を学んだ。

「カリオストロの城」のミートボールスパゲティは有名だが、スパゲティ演出が素晴らしいのはむしろ「紅の豚」。ミラノの修理工場が修理を引き受けて、女たちが大テーブルを組む。で、何を修理するのかな、と思ったらまず、スパゲティを食べる。スパゲティと赤ワイン。まず食べてから、作業。まさに「食べないことにはエネルギーは出ない」「腹が減っては戦ができぬ」というエネルギーの等価交換理論。ナウシカに出てくるクシャナ王女にも「1時間後に攻撃を開始するから、兵に食事を摂らせろ」みたいな台詞がある。クシャナはナウシカにおいてイヤな奴、敵役なんだけど、ここは「そんなに悪いヤツじゃない」ことを示している。(ちなみに「カリオストロの城」の見所は全編通してのタバコ演出)

ハヤオは旅に出るための荷造りの描写にも、必ず食糧を含める。ポニョがブリキ船で大洪水に乗り出すシーンでも、ラピュタであわてて逃げ出すシーンでも食べ物を持つ。ルパンもリンゴ積んでる。持って出れなかった場合は街で買う。アシタカとかお米買ったりしてるし。ナウシカが人質としてペジテ行きの船に乗り込む場面では、子供たちが駆け寄ってチコの実を渡す。とにかく旅に出るなら食べ物。ナウシカを姫姉様と慕う子供たちの思いがチコの実に形を変え、それが腐海の底でナウシカとアスベルの命をつなぎ、そして。映画版のナウシカは最後、どういう絵で終わるか覚えてますか。森から子供たちへ、子供たちからナウシカへと渡ってきた愛情のバトンが、ずーーーっとつながって、最後に。こうなりました、という、オチなのよ。そういう、あれはそういうことですよ。ほんとうに美しい。ほんとうによくできている。

ラピュタの主題歌の歌詞書いてるけどそこでも「さあ でかけよう ひときれのパン ナイフ ランプ かばんにつめこんで」。あるいはナウシカのユパ様。勇者の描写といえば馬一頭で、ほぼ手ぶら状態で荒野を行くのが定番だけど、ユパ様はちゃんともう一頭連れて、そこに荷物乗せてる。ああ、あそこに水や食糧が入ってるんだろうな、と思うとほんと安心する。007とか、いつどうやってメシ食ってるんだよ、って、みなさん心配になりませんか。私はいつも「私には見せてないだけで、この人はちゃんとこんな大立ち回りする前に食べてるはずだから大丈夫」、と脳内補完してる。ハヤオは唯一の、「脳内補完なしで私が安心して見れる作家」である。

登場人物を善悪の2色で塗り分けるのは簡単だけど、その中間、グレーの部分を表現するのがハヤオはうまい。例えば「魔女の宅急便」で、ある少女(仮にAとする)が「ニシンとカボチャのパイ」を拒絶するシーン。おばあちゃんが心を込めて作り、電気オーブンが故障したからとわざわざ薪で焼き、雨の中キキが大変な思いをしながらだいじに運んできてくれたパイだ。それをAは「またおばあちゃんのこれか、私これキライ」と言ってドアをバタンと閉める。観客の心にネガティブな印象が刻み付けられる。イヤな女だ。しかし考えてみると、我々誰もが少女Aだったのではないか。私たちの誰もが、親戚の家で甘過ぎるオハギを「やだなー」と思ったり、おばあちゃんが「私の子供の頃の好物」ばかりを食べきれないくらい作るのにうんざりしたり、そういう経験をしてきたのではないか。少女Aは、そこだけ見ればヤな感じだけど、決して真っ黒ではない。グレー。一般的に難しいグレー表現を、あえてフードで表現してみせる、それがハヤオの真骨頂。

ナウシカは動物にちゃんとエサを与える。動物を手なづけ距離を縮めるには、なんといってもエサである。当たり前のことだが、その当たり前を描写する作家は希有。そういうのがない映画を見ると私はいつも「私には見せてないだけで、どこかでエサやってるんだろうなー」、と脳内補完してる。千と千尋のリンはクロスケにコンペイトウをあげる。カマジイは天丼と水を運んで来る。それが初めてじゃないということを見せるために、以前の食べカスがちゃんと描写されてる。「もののけ姫」の王子アシタカは、ヤックルにエサを手ずから食べさせ、その手で自分が食べる。ヤックルが先で自分が後。それが王たる器を表現している。

魔女の宅急便の、黒猫ジジ。ジジは途中まで言葉がしゃべれるという設定で、「お腹がすいた」と言う台詞も2度ある。ジジはテーブルの上で食事をとる。が、やがてキキはトンボに恋をし、ジジは白猫に惹かれ、別々の道を歩み始めると、ジジはしゃべれなくなり、以降は床で食事するようになる。パンケーキをテーブルに置いても、それをくわえて下ろす。当たり前のようだけど、この「以降は床で食事する。ネコだから」という描写をきちんとやるのがハヤオの確固たるフード文法。関係の変化とか、心理とか、キャラクターの厚みとかを、言葉では説明せず、フード周りでさりげなく表現し、しかもそれが絵になるサマになる。ハヤオはほんとにセンスがいい。

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by nobiox | 2015-10-10 16:08 | ├映画 |
宇多丸師匠への私信01:品川さんを責めないで。

宇多丸師匠こんばんは。

Youtubeで「宇多丸が映画『サンブンノイチ』を語る」というのを拝聴しました。これがいつの放送なのかは知りませんが、アップされたのは2014年4月らしいです。映画監督としての品川ヒロシ、松本人志、ナベアツがダサい連中だ、という根幹に関して、私は宇多丸師匠に共感しております。その上で、思うところを申し述べます。

◆◆

品川氏(あるいは松本人志あるいはナベアツ)は要するに「上から目線でああだこうだ批評する通ぶった素人がウザい」わけです。それを、思うのはいいけど口に出すのはダサい、というのは大いに同感なんですが、とにかく品川氏のその感覚自体に矛盾はありません。

「批評家気取りのマニアうざい。素朴な客はオレを支持してる」、と。それは、ほとんどの飲食店主が食べログに対して抱く敵意、ほとんどの芸能人・ミュージシャン・作家・映画監督が2ちゃんねるに対して抱くうんざり感と同質のものでしょう。

「進撃の巨人監督・樋口真嗣が前田有一の映画酷評にブチギレ」という話題がつい先日ありましたが、あれなんかもまさに「批評家気取りのマニアうざい。素朴な客はオレを支持するはず」発言の典型です。品川ヒロシ、松本人志、ナベアツがダサい連中だとするならば、樋口真嗣もダサいと言わねばなりません。で、師匠は、「素朴な観客、なんてものはフィクションである」「今の客は目が肥えている」とおっしゃるのですが、果たしてそれは本心でしょうか。

◆◆

師匠は、龍三と七人の子分たちの回で「大衆」を「日頃芸人タレントとしてのたけしさんにテレビとかで親しんでいて、尚且つ、別に映画マニアとかじゃないからハードコアないわゆるたけし映画には耐性がない層」と定義し、「要は、いちばーん多い層」である、と述べておられます。いちばーん多い層は素朴な観客であり、今回北野武監督はその素朴な観客に正面から向き合い、素朴な観客をこそ喜ばせようとしているのだ、と。肯定的に。だったら、その文脈では、品川監督を肯定的に評価したっていいんじゃないでしょうか。品川監督は素朴な観客に正面から向き合い、喜ばせようとしているのだろう、というふうに。

また、アジョシの回ではこんなことをおっしゃってます。「従来、韓国映画の容赦ないバイオレンス描写が大好きなのは一部の好き者達(あるいは「猛者たち」あるいは「僕ら」)であって、一般の人に受けるのはやっぱりラブコメか悲恋ものであった」と。要は、映画の客には2種類いる、と言ってる訳です。大多数の一般人と、一部の尖ったマニアと。

品川氏がそう言ってるんじゃないですよ。師匠自身がそうおっしゃっています。そして品川氏は「一部の尖ったマニアうぜー」と言ってるわけです。そう思うのはいいにしても口に出すのはダサい、というのは大いに同感なんですが、とにかくその品川氏の感覚自体に矛盾はありません。「いちばーん多い層は別に映画マニアとかじゃないので、ハードコアないわゆるたけし映画には耐性がない」「一般の人はやっぱり容赦ないバイオレンス描写とか苦手で、ラブコメか悲恋ものが好き」と言いながら「素朴な観客なんてものはフィクションである」と主張する師匠の方が矛盾してると思うのですが。

◆◆

「近年バックトゥザフューチャーはマニアによって本格的に論じられることが多いんだけど品川さんご存知ない……?」とか、「クリスチャン・スレーターの話してんのにアレ観てないの?」とか、かなりこう、小馬鹿にした風に、じつにイヤーな感じにおっしゃってますが、品川氏に言わせれば「うるせー。ご存じねーよ、だからなんだよ。オレはマニアなんてクソだって言ってるだろうが」でしょう。

あんたが大好きなタランティーノこそ最強の映画マニアじゃん、というのはよい指摘だと思いますが、「タランティーノ映画が好き」と「上から目線でああだこうだ批評されるのが嫌い」は、なんら矛盾しません。「ライムスターの曲が好き」と「宇多丸の映画評論が嫌い」が少しも矛盾しないのと同じように。

また、僕はタランティーノという人の言動をよくは知らないのですが、彼は気に入った映画を持ち上げるのが趣味で、気に入らない映画にあれこれ言うことはそもそも少ないんじゃないでしょうか(よく知らないので間違ってたら認識を改めますが)。

◆◆

師匠は「品川氏こそが一番バックトゥザフューチャーをバカにしてんじゃないの」とおっしゃいますが、してません。どういう理屈でそうなるんですか。一般人に受ける映画の代表例として、かつ、マニアがバカにしそうな映画の代表例として挙げてるだけです。「近年のマニアはバックトゥザフューチャーをバカにしないんですけど品川さんご存知ない……?」なんてツッコミは、品川さん的には「ご存じねーよ。ああそうなんですかよかったですねえ、だからなんだよ、あ?」でしょう。

仮に私が、いちばん好きな食い物として、かつ、一般人に受ける食事の代表例として、かつ、食通がバカにしそうな食事の代表例として「吉野家の牛丼」を挙げたとして、じつは近年の食通がこぞって吉牛を本格的に論じてたとしたら、私こそが吉牛をバカにしてるということになるんですか。なりませんよ。だって、いちばん好きだって言ってるじゃないですか。この場合私がバカにしてるのは「吉牛を腐す食通気取りのアホども(という想像上の存在)」であり、「吉牛」そのものではありません。

仮に私が、いちばん好きなミュージシャンとして、かつ、一般人に受ける、かつ、音楽通がバカにしそうな音楽の代表例としてカーペンターズを挙げたとして、じつは小西康陽、坂本慎太郎ほか音楽通がこぞってカーペンターズを賛美してるとしたら、私こそがカーペンターズをバカにしてるということになるんですか。なりませんよ。だって、いちばん好きだって言ってるじゃないですか。この場合私は、「小西康陽や坂本慎太郎の見識を見直したぜ、わかってんじゃん」と言うでしょう。

◆◆

「次はお笑いを封印して本格アクションとかやったら『意外と』いいんじゃね? と思わせる程度にはやっぱいいです、そこは」みたいな提言をされてますが、善意でおっしゃってるんでしょうか悪意でおっしゃってるんでしょうか。どっちだとしてもほんっとに、やめてくださいよ。品川氏からしてみたら、次回作でお笑いを封印して本格アクション、なんて、もはや不可能でしょう。だって、そんなことしたら憎っくき宇多丸の軍門に下ったみたいになるじゃないですか。「品川監督は僕の提言を理解できたみたいですね」とか、TBSラジオで言われちゃうじゃないですか。彼は何が何でもそんなことしませんよ。ゼッタイに。何故なら宇多丸にそう言われたから。「なんでオレにそんな反発」と思うかも知れませんが、反発されて当然の人格攻撃を、してますよ。師匠は。品川氏に対して。「アジョシ研究したでしょ、こういうこと言われるとうれしいでしょ」とか。

言うまでもありませんが、番組中で読まないでくださいね。品川さんを怒らせたくないんで。


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by nobiox | 2015-08-27 22:42 | ├映画 |
「大日本人」「しんぼる」「さや侍」
さいきん TSUTAYAで「大日本人(2007)」のDVDを借りて見て、聞きしにまさるつまらなさに驚いた。その後高須光聖との公開前の対談で、制作費10億と聞いてまた驚いた。あと、撮った本人がむちゃくちゃ自信持ってることにも。

「大日本人」以降、松っちゃんについての世評は「お笑いとしてはスゴいけど映画監督としては才能ない」という線で定着した感じだけど、松本人志が「大日本人」を「映画」だと思っているのかどうか、そこはよくわからない。上記の対談でも「お笑いIQの高い人ならこのスゴさがわかる」「だよねー」みたいな会話がある。「映画IQの高い人ならこのスゴさがわかる」とは言ってない。松っちゃんには「お笑い芸人が映画という異業種に挑んだ」という意識はさらさらなく、単に「(通常のコントの制約を離れて)2時間もののお笑いコントを撮った」のではないか。そしたらそれが、驚くほどつまらなかった、と。

その後 TSUTAYAで「しんぼる(2009)」のDVDを借りて見た。「大日本人」と「しんぼる」はかなり様子が違うが、「出そうで出ないくしゃみのように、オチを与えられずにえんえんと1時間以上引っ張られる微妙なボケ」という点では同じだ。そして、びっくりするほどつまらない。そして、浅い。

たぶん松本人志は「出そうで出ないくしゃみのように、オチを与えられずにえんえんと引っ張られる微妙なボケ」が大好きなのではないか。だから松本人志にとって「大日本人」は大傑作で、「しんぼる」も大傑作なのだ。だけど一般人にはキツイ。一般人として、「オチを与えられずにえんえんと引っ張られる微妙なボケ」を楽しめる限度は、10分か20分か30分だ。2時間は無理っしょ。あり得ない。

その後 TSUTAYAで「さや侍(2011)」のDVDを借りて見た。これがねえ。ちょーつまらない。だけどある意味で面白い。以下、続きは徐々に書く予定。

「何なのですかそれ。いったい何がしたかったのですか」
「なぜ鼻からうどんなど啜ろうと思ったのですか」

「オレに言わせりゃ、あんなもん作らせて一瞬で終わりって、金の無駄遣いだっつーの」
「でもアタイはああいうの好きだねえ、派手だしさあ、なんてったってスカッとして、バカバカしいじゃないか」
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by nobiox | 2013-10-16 23:46 | ├映画 |
【ネタバレ】ユージュアル・サスペクツって、何がそんなに面白いの?
後記:この記事は、「あの素晴らしさがわかんないのか可哀想なヤツめ、しょうがないから教えてやるけどなあ、」みたいなコメントが多数寄せられることを期待して書いたんですが、意外にも「そうそう。オレもそんな面白いと思わんかったわ」的なコメントばかりいただく結果となり、なんと言っていいのか、なんと言うかもう何だかすみません。後記終わり。

◆◆

人は人それぞれ、映画やマンガや音楽について「好み」を持つ。食べ物や飲み物についても。あるいは、異性についても。あるいは性別無関係に、人に対しても。自分の場合、好みというのはだいたい4分類できる。

1)最高。マジリスペクト
2)好き
3)タイプじゃない
4)不快。積極的に嫌い

日本のミュージシャンでいうと例えばゆらゆら帝国は1。aiko、Perfume、岡村ちゃん、ゲス極は2。GReeeeN、ゆず、エグザイル、あゆ、倖田、さだ、長渕、まあだいたいの「J-POP」は3。だいたいの演歌や歌謡曲も3。2と3の境界はかなり曖昧。4は該当なし。食べ物でいうとブロッコリーは1。この世の大抵の食べ物は2。甘い煮物は3。甘い天津飯も3。パクチーは4。チキンマックナゲットも4。いや、あくまでも私の好みの話ですよ。「チキンマックナゲット最高」という人に喧嘩を売る気はまったくありません。ああ、あなたはそうなんですか、私はこうです、というだけ。

で、以上は「わかる(ような気がする)」領域の話だ。それ以外に私には「わからない」ものが膨大にあり、それは「謎」と呼ぶしかない。

1)最高。マジリスペクト
2)好き
3)タイプじゃない
4)不快。積極的に嫌い
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X)謎

音楽でいうと、クラシックとジャズのほとんどは、ざんねんながら僕にはよくわからない。コルトレーンやハービー・ハンコックやキース・ジャレットの格好良さ、とか、ブルックナーの交響曲の雄大さと叙情、とか言われても、わかる人にはわかるらしい、と憧れを抱くばかり。謎だ。

「タイプじゃない」と「謎」は何が違うかというと、魅力を理解できるかどうかの違いです。「友達はみんなテニス部のキャプテンの妻夫木先輩に夢中だけど、たしかに爽やかでイケメンでオシャレでお金持ちでスポーツ万能でギターと歌がうまくて成績は常に学年トップで、モテるのはよくわかるけど、私もぜんぜん嫌いではないけど、好き嫌いで言ったら好きだけど、別にタイプじゃないわ」的なこと、誰しもあるはずだ。あるでしょう。「佐々木希は美形だとは思うけど、そそられない」だとか。

「タイプじゃない」ってのは、「(とりあえずは)見切ってる」ということだ。もちろん「とりあえずは」ですよ。人間は複雑な生き物で、人生は予測不能だ。のちのちの展開次第で、「別にタイプじゃないと思ってた妻夫木先輩と、まさかこんなことになるなんて」みたいな話も、ままあるだろう。あるかもしれないが(先のことはわからないが)、とりあえず今は、見切っているつもり。それがすなわち「タイプじゃない」ってことです。

「謎」はそれとは違う。そもそも何が魅力であそこまでモテてるのか、それがよくわからない。逆に言うと、わかれば大好きになるのかも知れない。だから、わかってみたい。興味がある。

僕にとって「謎」の映画はたくさんある。例えば『フィッツカラルド』、例えば『エル・トポ』。どちらも30年前に映画館で一度観たきりだが、まるっきり謎だった。わかりたくてDVDで何度も観た映画も多い。『2001年宇宙の旅』『シャイニング』『七人の侍』『ファイト・クラブ』『スター・ウォーズ』、そして『ユージュアル・サスペクツ』。

『ユージュアル・サスペクツ』は少なくとも4回は観た。面白くないとは思わない。面白い。好き嫌いで言ったら好き。しかしなんでそこまで絶賛されるのか、ピンとこない。

◆◆

この記事は「ユージュアル・サスペクツを絶賛しとるヤツはアホ」というようなことが言いたくて書くのではない。逆です。絶賛してる人の気持ちをわかってみたい、と心から思ってますので、親切なあなた、どう面白かったか、コメント欄で熱く語ってみてください。繰り返しますが、それを論破したくて書くのではなく、それをなるほどと思いたいのです。

個人的にこの映画の素晴らしいと思うポイントは、「男たちが小さな声でしゃべる」ところです。
こんなに小さな声でしゃべる英語は、あまり聞いたことない。
















◆◆
警告:以下の文章を、映画「ユージュアル・サスペクツ」未見の人が読むことを禁じます。
1行目からモロにネタバレしてます。

































































絶対にお勧めできないのは、
「未見の人が、この記事を読んでからこの映画を見る」
ことです。そんなことしたら私と同じ感想になる公算が高い。それはものすごくもったいないことです。絶対にやめてください。そんなことしても誰も得しません。そんなことするなら一生見ない方がマシ。

映画は、楽しんだ人の勝ちで、楽しめなかった人は負け組です。
未見の人はまず、このページを閉じ、映画を見て、楽しんでください。








































いいか、警告はしたぞ。まだ遅くない。このページを閉じろ。




























































































































全体として「なんと、全部ヴァーバルの即興の作り話でしたー」という映画なわけだが、全部とは言っても、もちろん本当に全部ではなく、ヴァーバルの話には現実との繋留点がいくつもある。例えば「サンペドロ港で貨物船が爆発炎上、大勢が死に、近くでヴァーバルが発見された」のも、その6週間前にNYで5人の前科者が拘束され、「面通し」で一同に会したのも、(作品世界内では)事実だろう。5人のうち、キートンの拘束にはデビッド捜査官が先頭に立っている。キートンの取り調べもデビッド捜査官が主導したと考えるのが自然で、だとしたら取り調べでのキートンの発言は事実だ(キートンがしゃべった内容が事実、という意味ではなく、キートンがそのようにしゃべったことは事実、という意味)。というか取り調べで何を言ったかは警察に記録がある(逆にヴァーバルは自分以外の取り調べは見てない。あそこは事件回想シーンのうちで唯一、ヴァーバル視点でない場面だ)ので、まあ5人とも、あのようにしゃべったことは事実だろう。

タクシーサービス襲撃事件も、ディテールはどこまで本当なのかわからないが、事件そのものは実在したに違いない。でなければ「NYにそんな事件の記録はない」と、デビッド捜査官がどやしつけたハズだから。ということは、ロサンゼルスで宝石商とそのボディガードを殺害したという話もたぶん本当だろう。でなければ「ロスにそんな事件の記録はない」と、デビッド捜査官がどやしつけたハズだから。また、炎上した貨物船の生き残り(全身火傷)がカイザー・ソゼという名の悪魔を目撃したと語り、ひどく怖れているのも事実だ。ラストには運転手としてコバヤシが登場する。コバヤシという名前はマグカップの裏から取ったでっち上げだが、「コバヤシに相当する誰か」は実在したということだ。

こうしてみると、デビッド捜査官に対するヴァーバルの証言は「全部作り話」どころか、むしろ「固有名詞以外はだいたい本当」ということになり、「全部ヴァーバルの作り話でしたーっ」というこの映画の鮮やかなキモが、ずいぶん色褪せて感じられる。ヴァーバルが、固有名詞を仮名で語るべき必然性は何なのか。「コバヤシ」以外は全部実名でしゃべっても、べつに支障なかったのではないか。

「全部ヴァーバルの作り話だった」と察した瞬間のデビッド捜査官の驚愕は理解できるが、よくよく考えてみれば「固有名詞をすり替えただけで内容はだいたい事実」なのである。よく考えると、大したことじゃない。また、「全部ヴァーバルの作り話だった」と察した瞬間に「げっ、じゃあヴァーバルこそがカイザー・ソゼかっ」となるのも感覚的にはわかる(というか、映画の作りがそういう感覚を誘導している)けれども、よく考えると「全部ヴァーバルの作り話だった」からと言って「ヴァーバルこそがカイザー・ソゼ」とはぜんぜんならない。

いやお前さっきから「よく考えると」連発してるけど、考えるなよ、ドントシンク、フィール!!! と言われそうだが、「緻密な伏線、驚愕のラスト!」とかさんざん聞かされてから観て拍子抜けした者は、よく考えながら見返し、思い返してはよく考えてしまうんだよしょうがないじゃん。

◆◆

5人の容疑者は警察が捜査によって選んだわけではなく、カイザー・ソゼ御指名の5人だった、とヴァーバルは証言する。仮にその通りだとしよう。ソゼの目的は何か。6週間後、アルゼンチンの貨物船がサンペドロ港に入る。そこにはこの世でただひとり「ソゼの人相を知る生き証人」、アルトゥーロ・マルケスが乗っている。ソゼの最優先事項は、この密告屋マルケスを消すことだ。そして第二の目的は、過去にオレ様に損害を与えやがったチンピラ4人を粛正することだ。

ソゼが、「アカギ」における鷲巣、「嘘喰い」におけるお屋形様のような、闇社会に君臨する巨大強力武装組織のボスだと仮定しよう。その場合、何故、「密告屋マルケスの殺害」と「チンピラ4人の粛正」をわざわざ絡めるのかが理解できない。チンピラ4人の粛正なんてどうでもいいじゃん。あるいは、いつでもいいじゃん。連中は自分がソゼに損害を与えたこと自体知らないんだし。で、マルケスの殺害の方は、自らの抱える兵隊組織に命じれば電話一本で済むことじゃないのか。6週間も前から回りくどいプロセスを経るべき理由は何もない。ボス自身がわざわざその回りくどいプロセスの危険な現場を踏むべき理由も、ない。

ではソゼは「組織のボス」ではなく、「常人離れした戦闘力と肝っ玉と洞察力と狡猾さを備えた一匹狼」なのか。だから、密告屋マルケスを殺害するためには急造チームを組む必要があり、それで4人を選んだのか。しかしその場合、何故、そんな一匹狼のカオナシが裏から手を回して警察組織を意のままに操れるのか、どうもうまくイメージできない。

「舐めんなよ、オレはこの辺じゃあちったあ知られた顔なんだよ」みたいな台詞がよくあるように、社会における影響力を担保するのは多くの場合「顔」だ。例えば孫正義は常人の域を超えたチカラを持っているだろうが、一夜にして全身整形して全くの別人の容姿になったら、そのチカラを失うだろう。なんらかの手段で、自分が孫正義だということを証明するまでは。しかしカイザー・ソゼの顔は「コバヤシ」と「全身火傷」と「密告屋マルケス」以外、誰も知らない。顔を知られていない組織も持たない一匹狼の悪党が、裏から手を回して警察組織を意のままに操れるのか。脚本に無理があるんではなかろうか。

サンペドロ警察のジェフリー・レイビン刑事はこう言っている。「ヴァーバルの罪状認否を取るところだった地方検事が、ヤツの弁護士と話した後で急に態度を変え、司法取引に応じてしまった。昨夜は市長自らがお出まし、今朝は知事から電話」。一匹狼ではなく暗黒組織のラスボスとでも考えないと、こういうことは説明できないのではないか(というかどうして刑事たちはこの時点でヴァーバルが謎のチカラを持った大物だと気付かないの? オレですら気付いたのに)。

◆◆

ソゼが「組織のボス」だとしても「一匹狼」だとしてもピンと来ない。では、ソゼには警察組織を意のままに操るようなチカラは実はなく、5人の容疑者は警察が捜査によってたまたま選んだのだ、と考えてみよう。この場合ソゼは単に巻き込まれたわけで、そもそも「目的」なんてものも存在せず、たまたまタクシーサービス襲撃計画を持ちかけられてたまたまそれに乗り、その換金のためにたまたまロスへ飛び、以下たまたまの連鎖の果てにたまたまこの世でただひとり「ソゼの人相を知る生き証人」、アルトゥーロ・マルケスにぶち当たった、というなんともご都合主義過ぎるお話になる。なんにせよ、「カイザー・ソゼ、すっげー」というカタルシスを求める欲望は満たされない。

◆◆

ソゼは、自分の人相を知る生き証人を消すことにこだわった。これは、ソゼのチカラを以ってしても、人相というのはそう簡単に変えられるものではない、ということを示している。彼の価値観では、武装集団に護られた男を急襲して殺して舟ごと燃やす方が、整形するよりも楽なのだ。

ところが。

一連の出来事を通じてソゼは「この世でただひとりソゼの人相を知る生き証人」を消したが、その代償として、あろうことか、人相を全米の捜査機関に知られた。似顔絵だけでなく、写真も、指紋もだ。当局はもともと、詐欺師「ロジャー・“ヴァーバル"・キント」の顔写真やら指紋やらの情報を持っていたわけで、今後はそれがイコール「カイザー・ソゼ」の人相だと、データベースに記録される(んじゃないかなー。まあ、カイザー・ソゼに確定した前科も何もないわけだが)。かなり間抜けな話だ。つまり、どう転んでもどんな仮定を置いても「カイザー・ソゼ、すっげー」とはならない。残念だ。まあそこそこ面白いとは思うが。

(ところで「炎上した貨物船の生き残りがカイザー・ソゼという名の悪魔を目撃したと語りひどく怖れている。彼の証言でソゼの似顔絵が作成された」という設定も、おかしくないですか。「我が名はカイザー・ソゼーッッッッ」と叫びながら暴れたとでもいうのか。それに正面からまじまじ見ない限り似顔絵なんて作成できない。近距離で正面から目撃された上に名前を知られた相手に、そんなに用心深い男がとどめを刺さないだなんて、ずいぶん不自然な話だ)

そして、フッ、消えた.... 『ユージュアル・サスペクツ』 - カイザー・ソゼの謎 -

前書きにクドクドと書いたことをもう一度繰り返しますが、「だから駄作だ」「失敗作だ」と主張してるのではありません。逆。「私にはこう思えるんだけど、名作だそうなので、どこがそんなに人々を感心させてるのか知りたい」という話です。






◆◆

◉後記(「コメント数13」の時点での感想)(うち3つは私ですが):
この映画については「何度も見れば見るほど素晴らしさに気付く」という評が多くて、それも私の戸惑いの原因となってきました。個人的には「何度も見れば見るほど事件の全体像はショボイし、ソゼもショボイ」と思ってしまう。だって例えば「セブン」も「羊たちの沈黙」も、事件自体が派手怖カッチョイイし、ジョン・ドゥもレクター博士もチョー怖いじゃないですか。怖いというのは雰囲気だけじゃなくて、具体的に圧倒的なエピソードが描かれるじゃないですか。看守の顔面を食いちぎるだとか。

だけどカイザー・ソゼの凄みというのはヴァーバルが昔話で語るだけだし、その昔話の内容も「まあとにかくもう容赦ない」ってだけで、とりわけぶっ飛んでる訳でもないし、とにかく、うひゃカイザー・ソゼおっかねー、となる描写はどこにもない。事件全体は何度も見れば見るほど「カイザー・ソゼ、ちょっと間抜け」「刑事はもっと間抜け」な感じに見えてくる。

この映画を「ヴァーバルっていうケチな詐欺師がいるんだけど、ヴァーバルはじつは世を欺くための仮の姿で、本当はカイザー・ソゼっていう超大物の大悪党なわけ。清掃のおじさんだと思ってたらじつはジャニー喜多川っていう芸能界のドンでした、みたいな。で、そのカイザー・ソゼが、自分にとって危険な生き証人が乗ってる船を襲撃して殺す話だよ」と、いうふうに、わかりやすく説明したら、ほら、全然面白くも何ともないでしょう。そこが「セブン」や「羊たちの沈黙」と決定的に違う。

が、いただいたコメントを何度も読み返すうちに、「そこが、そここそがこの作品の凄みなのかな」と思うようになりました。

わかりやすく説明したら面白くも何ともない話を、語る順番を工夫して切り貼りして、膨大なディテールに膨大な隠れた意味を持たせるだけでここまで意味有りげに面白く緊張感持って見せることができる、という、その点こそがこの映画の素晴らしさなのかな、と。その点では「現金に体を張れ」の上位互換というか進化型というか。「運命じゃない人」や「その土曜日7時58分」や「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」の、先祖のひとつというか。そう考えるとたしかにそんな気もしてきます。コメントをお寄せいただいたみなさん、ありがとうございます。言うまでもなく、引き続き、熱いコメント募集中です。
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by nobiox | 2013-09-22 22:58 | ├映画 |
「ガタカ」(1997/106min)
 TSUTAYA で DVD を返却する時、カウンターで整理中の DVD の山に「ガタカ」を見かけた。ジャケットではない。ジャケットから抜いた半透明のケース。ケース越しに見える DVD の盤面にカタカナで「ガタカ」の文字。最近その存在を知り、気になっていた映画だ。
「あ、今そこに『ガタカ』あったでしょ、それ借ります」
「え?」
 お兄さんは怪訝そうな声を返した。
「え?」じゃないだろ、今の今だよ、いやその山じゃなくてこっちの、上から2、3枚目、ほらあった。
「あーっ、と……………………、『ハゲタカ』ですねこれ」
 僕たちは顔を見合わせてぷっと噴き出し、長年の友人同士のように笑った。

・・・と、いう事件を経て、観ました。いやー、面白いわ。しかし納得いかない点がたくさんある。

ドアノブを触っただけで遺伝情報がすべてバレる、という設定が出てくるけど、あれは要らないんじゃなかろうか。いろいろと涙ぐましい努力が描かれるけれど、なるほどこれだけ徹底的にやれば「ドアノブ触っただけでバレるような世界」でも騙し通せるかも、と思えるまでの説得力はない。だいたいドアノブ触っただけで全部わかるなら、血液チェック要らないじゃん。毎日毎日キーボードを徹底的に掃除する社員を、会社側は不審に思わないのか。掃除終ったらちょっとそのミニクリーナー貸してくれんか、検査するから、とか言われないのか。「睫毛を落とすなんて注意不足だ」という台詞があるけど納得いかない。どんなに注意を払っても体毛の剥落が100パーセント防げるとは到底思えない。心臓に欠陥があるアイリーンがどうして適合者なのか。彼女の心臓の問題を会社は把握しているのかいないのか、どっちだとしても不自然だ。医学が発達したため血液検査と尿検査だけしてればその他の健康診断はいっさい不要、という設定なのかと思ってたら、ランニングマシーンのとき心拍数測ってた。心拍数計測があるならやっぱ他の臓器も健康診断くらいしそうな気がするけど。ヴィンセントとユージーンの人相の違いを、アイリーンはひと目で気付くのにアントン刑事はどうして気付かないのか(アントンは会社でヴィンセントの顔を認識してなかったんだっけ。そんならなんで最後に気付いたんだ?)。

以上はすべて「あんなんでバレないとは思えない」という疑問だけど、他にもある。アントンはどうして最終的に兄の不法就労を見逃すのか(ヨメは「水泳勝負でまた負けたから」だと言うんだけど)。まあそれはどうでもいいか。情にほだされて心が動いたのだと考えておこう。しかしだ、そもそも1企業が毎日毎日1ダース以上のロケットを打ち上げてる時代に、「超エリートでないと宇宙に行けない」という設定自体が馴染まないんじゃないか。スーツ姿のままで土星まで行けるんだったら非凡な心臓も非凡な身体能力も要らないじゃん。そんな時代に「土星に向けて旅立ったから人生の勝者」みたいな感動的エンディングっておかしくないか。せめて「土星に行って何をするのか」について、なるほどそりゃスゲーわ、と思わせてくれる設定が必要じゃないか。ちなみに僕は右利きだけど小便するときに使うのは左手です。

と、いうように、いくつかは作品の根幹にかかわる問題だと思うけれども、それでもそのせいで台無し、と感じないのが不思議だ。納得いかない点は多々あるけれどそんなことはどうでもよく、大層面白かったです。「手塚治虫が考えた未来+ロシア・アヴァンギャルド+未来派」みたいなレトロフューチャーで静謐なビジュアルと、それにばっちりハマるイーサン・ホーク、ジュード・ロウ、ユマ・サーマンのルックス。特にユマ・サーマンの変な未来派な服。ブレードランナーとは全く違うタイプの未来を発明したというだけでも素晴らしい。
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by nobiox | 2012-10-30 15:51 | ├映画 |
町山智浩が語る「20世紀少年<第2章>最後の希望」
●町山智浩が語る「20世紀少年<第2章>最後の希望」

1970年代の前半の、ウルトラマンがいて鉄腕アトムがいてロックンロールが革命を歌ってて、ロックで世の中が変えられて平和が来るかも知れないという、そういった、希望に満ちた夢が、冒険が、80年代には世の中からきれいさっぱり消えちゃって、ひとっつも達成されなかったと。すべて崩壊しちゃったと。主人公のケンジはそのことに強い鬱屈を抱えながら、今はコンビニで働いていると。それは実は、浦沢直樹自身の投影なんだよ。

で、そのケンジの欲求不満、ケンジの(つまり浦沢直樹の)ダークサイドを形にしたのが「ともだち」なわけ。ともだちは、80年代以降の商業的な社会というかバブル社会というか、そういうものをぶち壊して、子供の頃の夢を実現させようとするんだよ。で、ケンジは逆にともだちと戦うことで、反体制の戦士、革命家になるという夢を実現するわけ。20世紀少年というのはまさにそういう物語なの。

ところで浦沢直樹の、というか70年代の、夢を、崩壊させたのは何かと言ったら、80年代的なバブルな文化状況なわけだよ。それを代表するものは、秋元康であり、その弟子である堤幸彦であり、あるいは高城剛だったり村上隆だったり西武の堤だったりですよ。で、こういう映画。業界ノリでバブルなノリで、テレビ局が主導して予算つぎ込んで作る映画っていうのは、いちばん、20世紀少年が(つまり浦沢直樹が)、打倒すべき、敵であるハズなんですよ。

読者の方から、「blockquote」の中に「a href=」を含めるのはW3Cの理念から言って間違いである、という興味深いご指摘を受けました。興味深いというか、知らなかったので、なるほどと思いました。残念ながらメアドが書いてないので返信できないのですが、この場でお礼申し上げます。ご指摘にもかかわらず相変わらずで、すみません。僕には僕で言い分もあるのです。それはさておき。

上の町山さんのトークはむちゃくちゃ面白い。一聴二聴三聴の価値がある。あるが、申し訳ないけど、2点、ケチをつけたい。

まず、ロックが(あるいはメディアによる人間の拡張が)世界を変革するという夢を崩壊させたのが「80年代的なバブルな文化状況」であるというのは、完全に、嘘だと思う。80年代的なバブルな文化状況さえなかったら、今頃地球はラブとピースとベルボトムとサンダルで溢れてるって言うの? 女子はみんなノーブラで? んなわけないじゃん。ロックが世界を変革するという夢が実現しなかったのはロックが世界を変革するという夢自体に無理があったからで、80年代的なバブルな文化状況のせいなんかではない。また当然、共産主義を目指す学生たちの連帯と反体制運動と火炎瓶が世界を変革するという夢が実現しなかったのも、夢自体に無理があったからで、80年代的なバブルな文化状況のせいなんかでは、ない。

ふたつめ。ロックが世界を変革するという夢と、鉄腕アトムの夢は、別物である。

80年代的なバブルな文化状況さえなかったらヒッピー革命が成就していたはずだ、なんて言い分は寝言だと思うが、ただ、大量消費社会の到来が当時の革命理論を戸惑わせた、ということはあると思う。それはその通りだ。モンペの少女なら「無辜の民」と思える(ここで言うモンペとは「日本で用いられる女性向けの労働用ズボン・袴の一種」を指す。「モンスターペアレント」の略ではない)けど、カラーテレビの画面の中の、赤いパンタロンに大ぶりのサングラスを合わせた少女を同じように考えていいのだろうか、とかなんとか、吉本隆明が哀れな困惑を語るのを、古本屋で立ち読みした記憶がある。そういうことだ。実際、先進国のバブル経済が窮乏革命論の敵だったという面はあるでしょう。しかし。

しかし、先進国のバブル経済は鉄腕アトムの夢の、敵だったか? そんなことはない。むしろ、強い味方だったはずだ。鉄腕アトムの夢は跡形もなく壊れたか? そんなことはない。いまでは先進国に普通に存在する、動く歩道とかスマートフォンとか薄型テレビとかテレビ電話とか電気自動車などなどは、手塚治虫が描いた夢、そのものじゃないか。鉄腕アトムに出て来たアイテムって、実現してみると案外大したことないね、と言うことは可能だろうが、すべてが跡形もなく壊れたとは言えない。バブルな文化状況のせいで壊れたなどとは、さらに言えない。おい町山君、いい加減なこと言うなよ、と言いたい。

もうひとつ、これはケチというわけではなくて、疑問なんだけど、たしか町山さんはスピルバーグが大好きだ。スターウォーズも好き……なんじゃなかったっけ。もし、町山さんの中に、秋元康と堤幸彦と高城剛と村上隆と西武の堤は「わるもん」で、町山智浩とスピルバーグとルーカスは「いいもん」という線引きがあるとしたら、その線引きの根拠はなんだろうか。もしかすると町山さんは「80年代的なバブルな文化状況」の恩恵を受けられなかったという怨念を引きずっていて、それで「如何にも恩恵を受けた違いない(と町山さんが想像する)」連中に反感があるのか。それにしても村上隆は関係ないんじゃないか。Wikipedia によれば村上隆って、初個展が 1991 年ですよ。それを「80年代的なバブル」とは呼べないでしょう。高城剛だって、有名になったのは90年代だと思う。村上隆や高城剛や小室哲哉は如何にもアブクゼニ感が半端ねえだろ、という感覚は、わからんことはないけれど。
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by nobiox | 2012-09-03 14:24 | ├映画 |
「 インビクタス / 負けざる者たち」(2009年アメリカ/132分)
★★★★★………感動しました。

ラグビーの南ア代表チームが強くなり、自国開催のW杯で奇跡の優勝を遂げた、という実話の映画化。しかし強くなった理由は「その気になる」「その気にさせる」のみで、それ以上の具体的な強化策はいっさい描かれない。究極の精神論。それを物足りないと思う人は多いかも。

監督クリント・イーストウッド当時79歳が全体を通して描くのは、「魔法のチカラ」だ。ネルソン・マンデラが、チームに魔法をかける。まずキャプテンと面会し、「頑張って」と励ます。フィクションだったらこんなこと、思いついても書けませんよ。恥ずかしくて。だけどいいんです。実話なんだから。

現実の面会では「頑張ってくれ」的なことも言っただろう。けど映画の中では、はっきり言わない。ただ、27年に及ぶ獄中生活で私を支えたのは、ある詩句だった、という話をする。困難に立ち向かうとき、歌が大きな力になる、この国は今、それを必要としている、とか語る。それだけ。ポエムだの歌だの、屁の役にも立たない、無力なものだ。だがそういうものが時として、チカラをくれる。大きな困難に立ち向かうときこそ、それが必要だ。だからこそ今、この国には君たちが必要なんだ、と。

その後もマンデラは、あの手この手でチームに魔法をかける。はぁ? そんなんで効いちゃうわけ? というのばかりだが、説得力がある。何故なら激動時だからだ。白人支配が崩れ、「富裕層の象徴だったお前らなんか全員投獄な」という可能性すら、もしかしたらあったチームを、その黒人大統領が、力になってくれと励ます。それが魔法となって、チームを動かし、人種の壁を崩す。最後には最強の敵を倒すために、声を揃えて新国歌まで歌う。それがチカラになる。強化の具体的な理由がないからこそ、魔法のチカラの魔法性が際立ち、感動的だ。

もしかするとこれは、「映画って何かの役に立つの?」という問いに対するイーストウッドなりの回答、なのかも知れない。屁の役にも立たない無力なものの効能を説得力を持って描いた作品として、漫画とか音楽とかデザインとかスポーツとか手品とか映画とかの「虚業」で食ってる人が観ると、特に感動すると思う。
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by nobiox | 2012-08-16 14:45 | ├映画 |
全国民必読!「オールド・ボーイ」の衝撃、じわり。あるいはミドの記憶のたったひとつの真実
ただの娯楽のはずなのにあまりの素晴らしさに驚いてしまって、その驚きのぶんが突き抜けた感動になる、という映画が、たまにある。エイリアンがそうだ。ブレードランナーもそうだ。ローマの休日もそうだ。キックアスもそうだ。「オールド・ボーイ」もそういう「奇跡の一本」だと思う。編集の、絵と絵のつなぎ方に独特の妙なセンスがあって、まあ狙い過ぎ感がわざとらしいと言えばわざとらしいんだけど、狙ってやれば誰でもできるかというと、やっぱり褒め称えるしかない。「チェイサー」も「グエムル」も良かったけど、「オールド・ボーイ」の凄みは一桁違う。それにしてもどうして日本人には「オールド・ボーイ」「チェイサー」「グエムル」程度のエンターテイメント映画が撮れないんだろうか。ああ、悔しい。見てない方はぜひ、予備知識なしで観てください。以下はネタバレです。エディタにコピペして読んでください。

◆ ◆

この映画が如何に素晴らしいか、について書くのは荷が重いので、遠慮する。代わりに、ミドの記憶について考えてみたい。デスは15年前に何者かに拉致され、理由もわからず15年間監禁され、今日、理由もわからず解放された。たまたま入った寿司屋で、ミドという名の若い女の板前に出会う。このミドとデスが、実は親娘だった、というのがこの映画最大の、衝撃のオチだ。オチだから、もちろんこの時点では観客にそのことは明かされない。もちろん本人同士もそのことを知らない。しかし。

親娘だということは、ミドの父親は15年前に突然失踪し、それきり行方不明ということだ。いま目の前に、どことなく見覚えがあるような無いようなおじさんが現れ、理由もわからず15年間監禁されて餃子を食わされてた、と言う。理由もわからず15年間監禁、って、尋常じゃない話ですよ。えっ、15年? 何故? それで? 以前はどこに住んでたの? ご家族は? 警察には行った? とかなんとか、次々に疑問が浮かぶうちに、自分の父親が失踪したのも15年前だったという事実に、その意味ありげな符合に、はっとしないのだろうか。

さらにそのおじさんに「監禁されてからしばらく後に妻が殺された。ニュースで見た」と聞かされても、ミドは、父の失踪後に殺害された母親と重ねて考えることはない。ミドは、ぼんやりさんなのだろうか。それにしても衝撃のぼんやりさんぶりだ。

その後、おじさんの娘の消息を辿るべく、おじさんの住んでた家の近所の、小さな時計屋を訊ねる。おじさんの住んでた家というのは、幼少時のミドが住んでた家だ。なのに、え、私もこの辺なんだけど、とはならない。時計屋のおばさんに、「ああ、あの娘なら5年前に電話して来て、父親の消息を訊かれたよ」と言われても、自分が電話したことをすっかり忘れている。おかしい。おかしいが、まあしかし、そこまではいいとしよう。ミドは不幸なトラウマを抱えた不幸な少女なんだから、記憶にフタをしているのかも知れない。

だけど「ストックホルム」はダメだ。それはさすがに気付かないと、ヘンだ。えっ? ストックホルム? 私もストックホルムなんだけど、と。

僕は名古屋生まれなので、名古屋出身だという人に会うと、「あ、僕も名古屋です」みたいな反応をする。名古屋という、国内では比較的メジャーな地名ですら、人はそういう反応をする。船橋の人だって、東京で、船橋出身だという人に会えば、「え、オレも船橋っす」ってなるでしょう。船橋という、首都圏ではメジャーな地名ですら、人はそういう反応をするのだ。これがストックホルムだったらどうですか。「えっー!!!、オレもストックホルムで育ったんっすよっ!!!!!」という具合に、かなり強い情動が呼び起こされるはずだ。名古屋や船橋はありふれているけれど、ストックホルムは決定的に珍しい。それに気付かないという設定は、あり得ない。

幼少時に父が失踪し母は殺され、ストックホルムで医師夫妻に育てられた韓国人の少女・・・え? ちょっと待って。私も5歳からストックホルムなんだけど。その子、いくつ? 19? え? 今どこにいんの? わかんないの? え、私もお母さん殺されてんだけど。え? お父さん失踪してんだけど。え? 4歳の誕生日。え? うん。15年前。え? それって私じゃね? あ、電話。国際電話。そういや中学ん時、夏休み、韓国に電話したわ。それ私だわ。おばさん、おばさんと電話で話したの、私だわ。ってことは、え? 何? アジョシがアボジじゃね? と。


◆ ◆

いったいどういうことなのか。僕が思いつく可能性はよっつある。

1)ミドは生まれてから十数年間の記憶を失っている。

2)催眠術で、偽の記憶をインセプションされている。

3)そうじゃなくて、5年前に時計屋のおばさんにかかって来た電話の方が、
  ウジンの偽装工作。実際のミドはストックホルムなんか行ったことない。

4)そうじゃなくて、クライマックスの、例のアルバムこそがウジンの偽装工作。
  実はふたりは親娘でもなんでもない。

1はいちばん自然な設定だが、だとしたら、映画として、がっかりだ。記憶がないにも関わらず、それを隠し設定として、「私、記憶ないの」的な台詞がないなんて、卑怯じゃないか。ミドが幼少期から最近までの記憶を失なっていて、ただ気付いたらソウルで板前修業してたんだよ私、と聞かされれば、おっさんだって(というか観客だって)何かを察知したはずなのに。例えば「到底不可能と思われたミッションが魔法のようにあっさり成功する映画」について監督に質問したところ、「ああ、あれはね、実は警備員が全員難聴で盲目、っていう設定なんだ。ただそれは隠し設定で、映画の中では特に説明してないけどね」なんて抜かしやがったらどうですか。そりゃ卑怯だろう。だから1は却下。だから、2か3か4だということになる。

2と3を比べてみよう。3は面白くて鮮やかだけど、だとしたら「4歳の誕生日に父親が失踪した。その後母親を殺された」ことは覚えてるわけだから、やっぱりふつう、思い当たるんじゃないか。無理がある。却下。じゃあ、2か。でもなあ・・・2だったら、最後にウジンが勝ち誇って真相を語るくだりで、少しは触れて欲しい。

「じゃあ、ミドは、ミドはストックホルムで育ったのか? そのことを忘れてるのか?」
「くっくっく、あっはっは、あーっはっはっは。ミドの記憶の中の両親、小学校、クラスメート、全部オレの創作なんだよ。ミドは記憶を失ってること自体に、気付いてない。オレが考えたミドのファーストキスがどんなんか、詳しく聞かせてやろうか? キス以外にもね、くっくっく・・・」

みたいな。そういうの、ちょっと欲しくないですか(説明的過ぎるか?)。
しかし、じゃあ4か、というと、4はいくらなんでも肩すかし感があり過ぎるし、「じゃあ、なぜウジンはミドを選んだか」について、年齢性別以外には必然性が何もないことになる。つまらないので却下。僕としては結局、2だと考えることにしました。いや、他の解釈も可能だ、と思われる方は、教えてください。


◆◆

さらに後記。説3に転向します。ミドは父の失踪と母の惨殺のショックで、前後の記憶を失っている。しかし大人になれば、5歳以前の記憶がない、なんてことは珍しくもなんともない。子供の頃はフラッシュバックに悩まされた不安定な日々もあったかも知れないが、事件を忘れたい、という潜在意識も手伝い、今となっては5歳からの育ての親を実の両親だと思い込んでいて、記憶喪失の自覚は全くない。ストックホルム云々はウジンが趣味に走って作り上げた創作ストーリーで、5年後にふたりが聞き込みに回りそうな家何軒かに、女優の卵か何かに小金と台本渡して電話させた。ミドはストックホルムなんて行ったことないし、育ての親は医師でもない。というわけでミドは何ひとつ気付かない・・・これでいいじゃないか。どこにも破綻のない、自然な設定だ。
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by nobiox | 2012-04-05 20:35 | ├映画 |
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