カテゴリ:├音楽( 23 )
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荒井または松任谷由実「恋人がサンタクロース」
そういうわけで甲斐バンドについて考えながら歩く12月下旬の新宿の街、クリスマスふうな飾り付けの元、女声ボーカルのクリスマスふうな歌が流れていた。どうということのない冬の一日なのに、恋人と過ごす特別な日だなんて誰が決めたの、たかが冬の一日じゃない、べつにどうってことないじゃない、というようなことを歌っている。はじめて聴く歌だがまったくその通りだ。

と、言いたくなるが、しかし。その声その歌い方は明らかに、ユーミンその人であった。検索してみると「忘れかけたあなたへのメリークリスマス」という曲らしい。1997年。なんだそりゃ。お前が言うか。クリスマスというのは恋人と過ごす特別な日だ、という認識を日本の社会に植え付けた決定打は、荒井または松任谷由実がうたった「恋人がサンタクロース」(1980)だろう。「誰が決めたの」って、アンタじゃないか。

まあしかしそれはともかく、「恋人がサンタクロース」は名曲だ。「春だったね」がディランで「テレフォン・ノイローゼ」がストーンズで「かぶとむし」がトッド・ラングレンなら、「恋人がサンタクロース」はホール・アンド・オーツだと思う。どこが何の曲に似てるという訳じゃあないけど、「ホール・アンド・オーツいいよなあ」という気持ちがベースにあってできた曲ではなかろうか。なんとなくそう思う。違ってたら、すいません。
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by nobiox | 2007-12-22 18:50 | ├音楽 |
吉田拓郎「春だったね」
1972年のことだ。自宅で Bob Dylan の「Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again(1966「Blonde On Blonde」収録)」を聞いていた吉田拓郎25歳(26歳?)は、ちくしょーカッコイイ曲だなあ、こんな曲をオレも書いてみたいぜ、と思いつつ、ふと見るとたまたま手元に何かの日本語の歌詞がある。

拓郎:「でぼくはね、この曲はなんていいんだろうと思ってね、うちで何回も聴いたんですね、素晴らしいと。はー。こんな曲ぼくも作ってみたいなあと思っているうちにね、たまたまね、詞があったんですよ、ある女の子が書いた詞が。そしてねそれをなんとなくその詞を読みながらね、そのボブ・ディランの曲を聴いているとね、詞がぴったり合うんです。これは詞にも問題がありますね。偶然あった詞が悪い。
それでね、もう合っちゃったからね、これはもう合ったものはしょうがないじゃないかといろいろね、だってそれはやっぱり最初に作った段階でね、作品というのはその段階で評価すべきものとぼくは思ってますからね、だから合ったものはこれは今さらとやかく言ってもしょうがないじゃないか、だからこれはもうレコードにしてしまえとこんな感じでやってしまったんですね」
小室:「前置きが長いな」
拓郎:「でもあの似てますね」

「窓を叩いてぇ」というところが何度聴いても笑える、不朽の名曲「春だったね」はこうして生まれた。実際、替え歌と言ってもいいくらいに似ている。気持ちはわかる。「Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again」が何番まであるか数えたことはないが、一番が終わると間をおかずに二番、二番が終わると間をおかずに三番、三番が終わると間をおかずに四番という調子で、同じ演奏が延々と続く。いかにカッコイイ曲とは言え、英語がわからん身ではちょっと途中で集中が切れる。いかにも、試しにこの詩を乗せてみようか、となりそうな曲だ。
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by nobiox | 2007-12-22 18:16 | ├音楽 |
どんなには・なーれーてても
2007年5月27日、「ZARD」こと坂井泉水さんは入院中の病院で階段から転落、頭を打ち、脳挫傷で亡くなった。「ちょっとした弾みで後頭部を強打して死亡」というのはゴールデンタイムの2時間ドラマにも昼の30分ドロドロドラマにもしょっちゅうある設定だが、現実には珍しい。しかもそれがカリスマ有名シンガー。「奇跡の天才投手が宿舎の階段で足をすべらせて咄嗟に手すりを掴んで結果として肩を脱臼、関節唇損傷」と同じくらい珍しいのではないか。

6月26日というからほぼ1ヶ月後、坂井泉水さんを「しのぶ会」が開かれた。それを伝えるトーチュウの記事の中で、代表曲「負けないで」の作曲者、織田哲朗さんのコメントが載っている。

メロディーを作る側としては(歌詞の)『どんなに離れてても』の『は』で切るのはおかしいと思ったが、聴くうちにそこがいいと気付かされた」と坂井さんの感性をたたえた。

・・・なるほど。例えば

   「いつまでも・あーいしてるよ」

であれば、言葉の切れ目がメロディの切れ目と一致するわけだが、それを

   「どんなには・なーれーてても」

とされて、言葉の切れ目とメロディの切れ目のズレに違和感を覚えたのだと。おかしいと思ったが押し切られたと。あえて追悼コメントにまでそれを言うんだから、よほど強烈な違和感だったんだろうか。しかし、聴いてるうちにそこがいいと気付いたのだと。なるほど、そういうことはあるかも知れない。かつて秋元康も「セーエーラ、フウックを」「脱ーがーさ、なーいで」について、「フウックを」っていう不自然なところが「フックになって」売れたんじゃないか、と語っていた。
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by nobiox | 2007-06-30 06:09 | ├音楽 |
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