町山智浩が語る「20世紀少年<第2章>最後の希望」
●町山智浩が語る「20世紀少年<第2章>最後の希望」

1970年代の前半の、ウルトラマンがいて鉄腕アトムがいてロックンロールが革命を歌ってて、ロックで世の中が変えられて平和が来るかも知れないという、そういった、希望に満ちた夢が、冒険が、80年代には世の中からきれいさっぱり消えちゃって、ひとっつも達成されなかったと。すべて崩壊しちゃったと。主人公のケンジはそのことに強い鬱屈を抱えながら、今はコンビニで働いていると。それは実は、浦沢直樹自身の投影なんだよ。

で、そのケンジの欲求不満、ケンジの(つまり浦沢直樹の)ダークサイドを形にしたのが「ともだち」なわけ。ともだちは、80年代以降の商業的な社会というかバブル社会というか、そういうものをぶち壊して、子供の頃の夢を実現させようとするんだよ。で、ケンジは逆にともだちと戦うことで、反体制の戦士、革命家になるという夢を実現するわけ。20世紀少年というのはまさにそういう物語なの。

ところで浦沢直樹の、というか70年代の、夢を、崩壊させたのは何かと言ったら、80年代的なバブルな文化状況なわけだよ。それを代表するものは、秋元康であり、その弟子である堤幸彦であり、あるいは高城剛だったり村上隆だったり西武の堤だったりですよ。で、こういう映画。業界ノリでバブルなノリで、テレビ局が主導して予算つぎ込んで作る映画っていうのは、いちばん、20世紀少年が(つまり浦沢直樹が)、打倒すべき、敵であるハズなんですよ。

読者の方から、「blockquote」の中に「a href=」を含めるのはW3Cの理念から言って間違いである、という興味深いご指摘を受けました。興味深いというか、知らなかったので、なるほどと思いました。残念ながらメアドが書いてないので返信できないのですが、この場でお礼申し上げます。ご指摘にもかかわらず相変わらずで、すみません。僕には僕で言い分もあるのです。それはさておき。

上の町山さんのトークはむちゃくちゃ面白い。一聴二聴三聴の価値がある。あるが、申し訳ないけど、2点、ケチをつけたい。

まず、ロックが(あるいはメディアによる人間の拡張が)世界を変革するという夢を崩壊させたのが「80年代的なバブルな文化状況」であるというのは、完全に、嘘だと思う。80年代的なバブルな文化状況さえなかったら、今頃地球はラブとピースとベルボトムとサンダルで溢れてるって言うの? 女子はみんなノーブラで? んなわけないじゃん。ロックが世界を変革するという夢が実現しなかったのはロックが世界を変革するという夢自体に無理があったからで、80年代的なバブルな文化状況のせいなんかではない。また当然、共産主義を目指す学生たちの連帯と反体制運動と火炎瓶が世界を変革するという夢が実現しなかったのも、夢自体に無理があったからで、80年代的なバブルな文化状況のせいなんかでは、ない。

ふたつめ。ロックが世界を変革するという夢と、鉄腕アトムの夢は、別物である。

80年代的なバブルな文化状況さえなかったらヒッピー革命が成就していたはずだ、なんて言い分は寝言だと思うが、ただ、大量消費社会の到来が当時の革命理論を戸惑わせた、ということはあると思う。それはその通りだ。モンペの少女なら「無辜の民」と思える(ここで言うモンペとは「日本で用いられる女性向けの労働用ズボン・袴の一種」を指す。「モンスターペアレント」の略ではない)けど、カラーテレビの画面の中の、赤いパンタロンに大ぶりのサングラスを合わせた少女を同じように考えていいのだろうか、とかなんとか、吉本隆明が哀れな困惑を語るのを、古本屋で立ち読みした記憶がある。そういうことだ。実際、先進国のバブル経済が窮乏革命論の敵だったという面はあるでしょう。しかし。

しかし、先進国のバブル経済は鉄腕アトムの夢の、敵だったか? そんなことはない。むしろ、強い味方だったはずだ。鉄腕アトムの夢は跡形もなく壊れたか? そんなことはない。いまでは先進国に普通に存在する、動く歩道とかスマートフォンとか薄型テレビとかテレビ電話とか電気自動車などなどは、手塚治虫が描いた夢、そのものじゃないか。鉄腕アトムに出て来たアイテムって、実現してみると案外大したことないね、と言うことは可能だろうが、すべてが跡形もなく壊れたとは言えない。バブルな文化状況のせいで壊れたなどとは、さらに言えない。おい町山君、いい加減なこと言うなよ、と言いたい。

もうひとつ、これはケチというわけではなくて、疑問なんだけど、たしか町山さんはスピルバーグが大好きだ。スターウォーズも好き……なんじゃなかったっけ。もし、町山さんの中に、秋元康と堤幸彦と高城剛と村上隆と西武の堤は「わるもん」で、町山智浩とスピルバーグとルーカスは「いいもん」という線引きがあるとしたら、その線引きの根拠はなんだろうか。もしかすると町山さんは「80年代的なバブルな文化状況」の恩恵を受けられなかったという怨念を引きずっていて、それで「如何にも恩恵を受けた違いない(と町山さんが想像する)」連中に反感があるのか。それにしても村上隆は関係ないんじゃないか。Wikipedia によれば村上隆って、初個展が 1991 年ですよ。それを「80年代的なバブル」とは呼べないでしょう。高城剛だって、有名になったのは90年代だと思う。村上隆や高城剛や小室哲哉は如何にもアブクゼニ感が半端ねえだろ、という感覚は、わからんことはないけれど。
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by nobiox | 2012-09-03 14:24 | ├映画 |
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