「ハート・ロッカー」についての町山智浩の解釈が奇抜過ぎる
(後付けの要約)
この記事はあまりにも冗長だと、反省しております。まあこの記事に限らない私の欠点ですがー。この記事の要点はみっつ。

その1:ジェームズの仕事が反戦、というのはいくらなんでもおかしい。彼はプロフェッショナルな態度でバンバン敵を殺すし、そのことを誇りに思うプロフェッショナルな兵士だ。そういう男の仕事が反戦、というのは、プロフェッショナルな捕鯨漁師の仕事が反捕鯨、というくらいにおかしい。

その2:ジェームズが戦場に戻る理由が反戦、というのもいくらなんでも根拠が薄い。

その3:町山さんは「自分の感性は信じない」と、かねがね公言している。自分の言いたいことよりも作り手の言い分を上位に置くという、まことに謙虚な姿勢の表明だ。だが。町山さんはそれを実践してるのだろうか。音声を聞く限り、心を無にしてとりあえず謙虚に宇多丸君の言い分を知りたい、聞いてみたい、聞き出したいという心がけの人には思えないのよ。いや、オレの感性ではね。町山さんは「監督の言うことは絶対」と言うけど、この様子じゃ監督と対談しても、この人には「自分の聞きたい意見」「自分の思い込みに沿った解説」しか聞こえないんじゃないか、そんなら結局自分の感性を信じてるってことじゃないのかと、心配になってしまう。以上、要約終わり。

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何度も聞こうと思い、あまりの面倒臭さに何度も挫折した「ライムスター宇多丸と町山智浩がハート・ロッカーについて議論してるらしい Pod Cast Part1, 2, 3」を、ようやく通して聞いた。一方は人の話聞く気が全然ないし、一方は「イヤそこは僕はそうは言ってない」とか「いやそれは勿論わかってる、わかって、わかった上でね」とかの連発で、ひじょーにつまらん。そこを乗り越えて聞きました。ネタバレありです。

町山さんの解釈:
まず、イラクのテロリストの標的を米軍だと考えるのは典型的な間違い。テロリストの目的は選挙妨害。そのためにイラク国内を、とにかく混乱させたい。だから標的はイラク人。新聞読んでりゃそれくらい常識。それと、ジェームズ(主役)の仕事を戦争屋と見るのも根本的に間違い。彼の仕事は爆弾の解体。彼の仕事は「戦争」じゃなくて「戦争の解除」。要するに「反戦」が仕事。

主役は爆弾処理に関して完璧で剛胆で自信満々で全能感を持ってて何も考えてない腕自慢として登場する。それが後半で酷い惨めな失敗を何度も重ねて自らの限界を知り、疑問を持ち、自信を失い、罪悪感にまみれ、自己嫌悪に陥り、崩壊する。つまり、考える人になってしまう。つまり、精神的に大きく成長する。失意の中、いったん帰国する。

が、やはり、オレがやらねば。オレの爆弾の解体の能力を、活かさねば。イラクの惨状を放っておくことはオレにはできない。誰も褒めてくれないかも知れないけど、イラクの子供達はオレを石もて追うかも知れないけど、わかってはもらえないかも知れないけど、それでもイラクの人々を救うために、オレがやるんだ。ラストシーン、ヘリコプターに乗る主役の胸にあるのは崇高な、と言って悪ければ前向きな、使命感。それと、エンディングの曲の歌詞から見ても明らかな通り、イラクにこんな悲惨な状況をもたらしたブッシュ政権に対する強烈な怒り。

全体としては、挫折を経て人間的に成長し、天命に目覚める男の物語。あれを見てこのように読み取れないヤツはバカ。あるいは無知。この見方が唯一の正解。

・・・新聞を読まない僕にとっては勉強になる部分も多いが、映画については違和感ありまくりだなー。爆弾の解体は確かに人命救助かも知れんけど、ジェームズ(主役)は最初から最後まで、敵を撃ち殺すことになんら痛痒も疑問も感じない男だ。敵を殺せば誇らしく思い、味方が傷付けば胸を痛める。敵は敵、味方は味方。彼は終止、その枠組自体を疑うことはない。「何故オレたちは敵味方に別れて争ってるんだ」なんてことは一度も考えない。典型的な兵士だ。反戦的な仕事だなんて冗談じゃない。さらに変化とか成長とか自信喪失とか罪悪感とか、そんな描写どこにあるんだ。

軍医が爆死して主役は大ショック、と町山氏は言うけど、泣きわめいて大ショックを表現してたのはエルドリッジだ。主役はエルドリッジをなだめて淡々と「もう彼は死んだ」と言う。

その後、主役はエルドリッジを撃っちゃって大自己嫌悪、と町山氏は言うけど、そんな描写もない。たしかに前半は快調で、後半、次第にストレスや失敗が多くなるけど、それはサスペンス映画の常道でしょう。ストレスが多くなれば暴れたり、無口になったり不機嫌になったりするでしょう。それを「自らの限界を知り、疑問を持ち、自信を失い、罪悪感にまみれ、自己嫌悪に陥り、崩壊する」って、どこがそれを表現してるシーンなのか教えて欲しい。シャワー浴びながら嗚咽を漏らすシーンか。確かにそういう見方も可能かも知れない。しかし、「不機嫌になってる」という見方だって可能じゃないか。僕はそう思って観てました。主役は、病院送りされるエルドリッジを見送りに来て、こう言う。「半年で直るならいい方だ」。どう見ても考えても、味方を撃っちゃって大自己嫌悪してる人間の台詞じゃない。オレのおかげで病院送りになって、おかげで死なずに済む。よかったじゃないか、くらい思ってそうだ。実際にエルドリッジの最後の台詞は、クソ砂漠とおさらばできることを喜ぶものだ。乱暴に言えば、彼は撃たれた結果を喜びつつ砂漠を去ったのだ。

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終盤、爆弾巻かれたお父さんを救えなくて「ごめんなさい。すまない、わかってくれ」って言うところが変化だ、それまではそんな人間じゃなかったのに、と町山氏は言うけど、「それまではそんな人間じゃなかった」なんて描写は、いっさい存在しない。
 コッポラの「マリー・アントワネット」に、王妃が立ち上がって拍手をするけど誰も同調しない、という印象的なシーンがある。かつてはそんなんじゃなかったのに。「かつてはそんなんじゃなかった」というシーンが「マリー・アントワネット」には実際にあるのよ。つまり、王妃が立ち上がって拍手するシーンが2度ある。その落差が、観客に変化を印象づける。一方「ハート・ロッカー」には、「かつては同じ状況でも謝ったりしなかった」なんて描写はない。

町山さんの主張に従えば、もしジェームズ合流後の最初のミッションが「あの爆弾巻かれたお父さん救出」だったら、ジェームズは謝ったりせず、というか逃げないんだから謝る理由はないんだけど、死ぬってことを考えてないのでタイマーのリミットなど気に掛けず鼻歌混じりに作業を続け、逃げず、結果としてお父さんと一緒に爆死して、そこで映画は終わってたはず、この見方が唯一の正解、ということになるんだけど、なんでそこまで言えるんだか理解できない。町山氏がエスパーの如き感受性でそう感じた、というだけじゃないか。自信家でもジャンキーでも普通は逃げる。根拠はオレの感性ね。

町山さんが町山さんの感性で僕とは違う物語を感じ取るのはいいし、それを説明してくれるのも歓迎するけど、俺の見方が正しくてこれと違う見方は間違い、とまで言わずにおれないらしいのは、何なのか。そこまで焦らなくてもいいじゃん。蓮實重彦なら、そんな中学生みたいな言い方はしない。言いたいことが同じだとしても、もうちょっと、何かこう、独自の愉快な言い回しを発明するはずだ。「間違いと言わざるを得ないと言うとすればそれはさすがにいささか言い過ぎかもしれぬと心配する程度の分別は私と謂えども備えているつもりではあると謂うこともまた可能なのであるだがそれでも映画の上映は否応なく終わり、残酷な照明が場内に灯ることを止めるすべなど存在しようもないのだ」とかなんとか。そもそも「自分の感性をいっさい信じない」のが町山さんのポリシーじゃなかったのか。

このシーンの後、「お前はよくやってられるな こんな危険な賭けを」とサンボーンに聞かれて、ジェームズはこう答える。「知るかよ 俺は... 何も考えてない」
 直後、彼は清潔で平穏なアメリカの日常の中にいる。素直に受け取るなら「最初何も考えてなかった主役は、戦地を離れる間際もやっぱり、何も考えてない戦争ジャンキーだった」と見るべきだろう。ただ、「なあ、なんでオレはこうなんだろう」と、葛藤は見せる。ドラッグをやめたいのにやめられない男のように。
 そして「オレの好きなものは、もう、ひとつしかない」。直後に響き始める、緊迫した戦場の重低音。素直に受け取るなら「もう戦場の緊迫感に麻痺しちゃって戦争しか好きになれない哀れな戦争ジャンキー」だろう。

このとき主役の胸中にはブッシュ政権に対する強烈な怒りがある、と町山氏は言うけど、その根拠はただひとつ、「このときかかる曲の歌詞の内容がアンチブッシュだから」だって。んな阿呆な。

「歌詞の内容がアンチブッシュだから、監督の内心のメッセージは明らか」と言うのはわかりますよ。だからといって「主役の胸中は明らか」とはならんでしょう。主役は何にも考えてないんだぞ。だって自分でそう言ってるじゃない。この世で好きなものはもう戦争だけなんだぞ。だって自分でそう言ってるじゃない。こういう何も考えてない、思考の麻痺した男たちを生み出すから戦争は怖いですね FUCK YOU ブッシュ、というのが、常識的な受け取り方じゃないの。

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ところで、対談のPart1の17分30秒、町山氏はこういう趣旨の発言をしている。「『オレは何も考えてない』と言ってた主人公が、爆弾巻かれたお父さんを救えなくて、逃げちゃう。以前は考えてなかったのに、ここで考えちゃうわけ。逃げるっていうのはそういうことでしょ。それまではそういう人間じゃなかったのに」。
 よくわからないけど、もしかして「爆弾巻かれたお父さん」のシーンと「オレは何も考えてないよ」のシーンの前後関係を誤って記憶してるんじゃなかろうか。それとも、彼が観たバージョンと僕が観たバージョンで、編集が違うのか。少なくとも僕の観たDVDでは、「爆弾巻かれたお父さんを救えなかった」が先で、「オレは何も考えてないよ」がその後なんだけど。

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ライムスター宇多丸さんの言い分:
 最後のシーン、戦争が好きだから、戦争ジャンキーとして、戦地に赴く。その描写がねえ、何か、勇ましいの。肯定的に描いてるようにも、見えちゃう。なんかこう、思考停止のススメと言うか。

多くの恐怖ハラハラ戦争アクション映画は、多くの戦争嫌いな人には強烈な反戦映画に見え、一部の戦争嫌いの人には「戦争バンザイ映画だ」と批判され、戦争好きな人には確かに実際に高揚感を与える。「プライベート・ライアン」だって「フルメタル・ジャケット」だってそうだ。同じようなことはたぶん、殺人鬼の映画にだって強姦魔の映画にだってヤクザ映画にだって銀行強盗映画にだって言える。スリルを描く以上、それはしょうがないと思う。

例えば「チョコレート・ファイター」を観れば、男女を問わず、誰でも多少はアドレナリンが出るでしょう。そのとき呼び醒される気持ちは、原初のマグマは、暴力というものに対して、肯定的なものでしょう。例えば「地獄の黙示録」のワルキューレ(だっけ? ブババババババッとヘリが編隊で飛ぶところ)のシーンだって、今日30年ぶりに YouTube で観たけど、正直僕は、30年前と同じ高揚感を覚えましたよ。それは、戦争というものに対して肯定的な高揚感だと、認めざるを得ない。言い訳したくても、自分で、それ以外の解釈を思いつかない。どんな戦争映画でも犯罪映画でも、そこにちょっとでも格好良さがあれば、「見方によっては賛美してるように見えちゃう」はずだ。

宇多丸さんすらも「砂漠の長距離銃撃戦スリリングでギザかっこよす萌え萌え。映画史に残る名シーン」と感想を述べている。「見方によっては賛美してるように見えちゃう」と言ったところで、そりゃあなたご自身も殺し合いシーンをギザ賛美して下さいましたもんね、愉しんでいただけたようでうれしいわ、と言われちゃうんではないか。

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内田樹は、20世紀の政治史を振り返るとわかることだが、スターリンも、ヒトラーも、毛沢東も、ポルポトも、フセインも、カダフィも、「国民の圧倒的多数の支持を得ていた政治的意見」の上に立っていた。と述べている。認めたくないことだが、たぶん半分以上のは事実だ(ポルポトはそんな圧倒的多数の支持を得ていたのだろうか。ほんと? よく知らんけど)。「無辜の民は誰もがいつも平和を望んでいて、一部の邪悪な権力者がそれを歪める」と考えるよりも「正直、オレらの中には暴力衝動も暴力賛美もナショナリズムも、元々多少はあるよ。だからこそそれをうまくコントロールする必要があるのよ」と自覚しておいた方が、安全なんではないか、だって現実にそうなんだし。僕は太平洋戦争についても、「無辜の民が邪悪な軍部に(あるいは天皇に)踊らされた」式の理解をする人は、あまり信用する気になれない。いや、いちいち文章長くなって恥ずかしいんだけど。

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戦争とは爆弾を落とすものだ。アメリカは世界中に爆弾を落としまくった。ところが「ハートロッカー」のヒーローは爆弾を無力にする男だ。このアイロニーに気付かず、彼を人を殺す兵士として見るのはたいへんなミスだよ。

話題が軍医についてであれば、軍医ってどこか逆説的でアイロニカルな存在だと、なんとなくだが僕も思う。しかし爆弾処理班の存在がアイロニカルだというのは、何度考えてもピンと来ないなー。町山さんの感性では互いにノーガードで攻撃に専念するのが本来の戦争のあり方で、ヘルメットも防弾チョッキも、戦車の装甲もアイロニカルなのだろうか。

「野球とは点を取り合うものだ。ところが星飛雄馬は得点を阻む男だ。このアイロニーに気付かずに『巨人の星』を語るのはたいへんなミスだよ」「野球とはバットで球をしばき上げるものだ。ところが大リーグボール1号は球をバットに敢えて当てることでバットを無力化し、大リーグボール2号は視界から消えることで、大リーグボール3号はバットを避けることでバットを無力化する。以下同文」と、町山さんなら言うのか。それはそれでおもしろい見方だとは思うけど、ジェームズは、現に、何人も何人も敵を殺す兵士だ。しかも、エルドリッジなんかとは違い、きわめて平然と、プロフェッショナルな態度で。しかもエルドリッジと違い、ジェームズはマッチョ自慢の男である。エルドリッジのことを「存在自体がアイロニカルな兵士」と呼ぶなら理解はできるが、ジェームズは違うでしょう。彼は自らの肉弾戦での強さにも、ナイフでの戦いにおける強さにも、銃撃戦における強さにも、知略における強さにも、強烈な誇りを持っている。

プロフェッショナルな態度で、平然と、何人も何人も敵兵を殺すマッチョ自慢の兵士のことを、人を殺す兵士として見るのが、たいへんなミスなの? アホか。

何をアイロニーと感じるかどうかって、どんなギャグを面白いと思うかと同じく、感覚の問題じゃなかろうか。自分と違うからと言って「たいへんなミスだよ」とか言うようなもんじゃないと思うんだけど。「たいへんなミスだよ」だって。だっせー。(弾道弾迎撃ミサイルがアイロニカルだというご意見であれば、僕もなんとなく同感です)

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僕は町山智浩さん嫌いじゃないです。尊敬してます。『ブレードランナーの未来世紀』なんてチョー名著だと思う。顔も声もしゃべりも好き。ただ、「なぜかツッコみたくなる点が多い」んですね。町山さんのツイッターとか見ててもしばしば炎上っぽいことが起きてるようなので、たぶん町山さんは「なぜかツッコまれやすい」言動の人なんじゃないかと思う。その中でも根本的に疑問に思うのは、「自分の感性はいっさい信じない」「わかんないことは作った本人に会いに行って聞けばいいじゃない」だ。


町山流「本人に聞け」主義についての疑問



仮に町山さんがキャスリン・ビグローにインタビューして「戦争とは爆弾を落とすもので、ジェームズは爆弾を解体する男だ。これは極めて本質的なアイロニーだよね」「OH,トモ、それはとっても鋭い見方だわ」なんて会話があったとしても、そりゃそのぐらい言うだろ、という話だ。宇多丸さんとの対談を聞く限り、相手の言うことを聞く気がぜんぜんなく、自分が作ったストーリーに沿う発言だけを無理矢理引き出す人なわけで、こういう人の本人インタビューなんてどれほど意味があるのかと、根本のところが心配になってしまう。

例えば「その男、凶暴につきの解説-01」「-02」で町山さんは「ジャック・タチのコメディのタッチに非常に似てる。そこがおもしろい」「音楽(サティ)の使い方はルイ・マル」と言い、「たけしさんはジャック・タチなんて見てない、と言うに違いないけど、絶対見てますよ」「たけしさんに言ってもルイ・マルなんて見てねーよバカヤロー、と言うに決まってるんですが、たぶんそう(ルイ・マルの影響)ですね」と言う。なんなのそれ。作った本人に聞いて、自分の見方と合致すれば「やっぱり僕の感じた通りでした」、自分の見方を否定されれば、「本人は否定するけど絶対そうですよ」「たぶんそうですよ」。町山さんにおける「本人に聞け」主義の適用は、ずいぶん恣意的ではないか。べつにそういう恣意的な二枚舌自体を批判する気はないが、批判したいのは、本人が自分の感性に応じて二枚舌を使い分けながら、いや僕は一貫してますよ、わかんないことは作った本人に会いに行って聞けばいいじゃん主義ですよ、自分の感性なんていっさい信じてませんよと本気で言ってるらしい、そのアホさ加減だ。

町山さんが「僕はこの映画を見てこう解釈しました。作った本人に聞いてみてもやっぱりそうでした」と発言するのを何度も何度も何度も何度も聞いたことがある。一方、「僕はこの映画を見てこう解釈しました。作った本人に聞いてみたら全然そんな意図はないと言われました。僕が間違ってました反省します」と発言するのは、一度も見かけたことがない。繰り返すが、べつにそのこと自体を批判する気はない。自分が感じたことをよりどころにするのは悪いことではない。批判したいのは、本人が自分の感性を評論活動の根本の根拠にしながら、いや僕はわかんないことは作った本人に会いに行って聞けばいいじゃん主義ですよ、自分の感性なんていっさい信じてませんよと本気で言ってるらしい、本気で言ってるくせに本気で実践はしてない、そのインチキ加減だ。

そもそも、その主義は何故、町山さんが気に入った作品にのみ適用されるのか。町山さんが映画「もしドラ」をバカにするのを見たことがあるけど、映画「もしドラ」を作った監督に会いに行って個々の設定なり場面なり展開なり配役なりの意図を聞いた、なんて話は見たことがない。作った本人が言うことがいちばんの真実だとしたら、そもそもこの世のすべての作品は素晴らしいんじゃないか、と思うんだが。

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「咳をしても一人」という句を「人生から自ら人を遠ざけた男が結核を病んだ死の床で孤独と向き合う」と説明すると「単に風邪かも」「なぜ自ら人を遠ざけたとわかる?」「この7字では説明が足りない」「解釈は自由だ」と言い張って自らの限界内にとどまろうとする人たちと、そうでない人がいる。

作品の成立背景と、作品をどう鑑賞するかは別の話だ。成立背景の主体は作者だが、鑑賞する主体は個々の読者だ。

「作者は自ら人を遠ざけ結核を病んだ死の床で孤独と向き合いこの句を詠んだ」という成立背景についての知識は、教養として意味あると思うし、尾崎放哉という人を知る上では非常に重要かも知れんけど、句の解釈は自由でしょう。解釈は自由ではない、史実以外は間違い、正しい解釈はひとつ、というのが町山さんの主張なんだとしたら、バカげた主張だ。この句には結核とか死の床とか出てこないからこそ、ニートとか、受験生とか、OLとか、サラリーマンとか、金持ちとか、いろんな人のいろんな心にそれぞれの角度で刺さるんじゃないか。

作品はすべて成立背景の通りに解釈しなくてはならないのだとしたら、ゴッホの生涯を知らずにゴッホの絵を見ることは無意味で、桑田佳祐の人生年表と当時の音楽情勢を知らずにいとしのエリーの真価はわかりっこない、ということになる。そんな聞かれ方を桑田佳祐は、あるいは尾崎放哉は、あるいはキャスリン・ビグローは、望むだろうか。料理をうまいとか不味いとか言う前に、作った人の主義主張をいちいちインタビューしなくてはならないことにもなるし、コントを生で見ても、おもしろいかくだらないか判断する前に、スマホで検索してWikipediaで芸人の生い立ちを調べなくてはならないだろう。町山さんが自らにそういう縛りを課すのは町山さんの自由だが、他人に同じ流儀を求めるのはちょっとどうかと思う。で、町山さんが自らにそういう縛りを課しているのだとしたら、映画「もしドラ」を作った監督に話を聞かずに映画「もしドラ」をバカにするのはどういうことなの。つか監督本人は「内容には自信あります大傑作です」と言うに決まってるんだから、「僕が間違ってました本人に聞いたら大傑作でした」と言わなきゃならんと思うんだけどそれは。ああ長くてクドくてすみません。
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by nobiox | 2011-09-18 11:57 | ├映画 |
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