『もしドラ』は何故売れるのか
「小説の読み方の教科書」を書き、それを伝えていくのがぼくの使命

今でも『もしドラ』のことを「表紙とタイトルだけで売れた」「アイデアはいいけど内容がない」「文章が下手」ととらえている人たちがいる。しかしそれは、あまりにも合理性を欠いた意見だ。(中略)あるいは、yaneuraoさんは、「『もしドラ』には、上記3つのネガティブ要素を補ってあまりある何かがあったから250万部増刷した」と言うだろうか? しかし、本において「表紙とタイトルだけで売れた」「アイデアはいいけど内容がない」「文章が下手」というネガティブ要素を、1年半、250万部も増刷するほどに補える何かというのは、この世に存在するのだろうか?

「表紙とタイトルだけで売れた」「アイデアはいいけど内容がない」「文章が下手」というのを、著者は「3つのネガティブ要素」と考えているようだ。そして、現に売れている以上、そんな重大な3大欠陥があるはずがない、と。なんだそれ。アホか。

例えばある若い女性が「顔と乳がいいだけ」「笑顔は魅力的だが知性がない」「音痴」だとして、それは「3つのネガティブ要素」だろうか。もちろん価値観は人それぞれだが、標準的な価値観ではたぶん、違う。

・顔はいい
・乳もいい
・笑顔も魅力的
・知性がない
・音痴

・・・これ、ふつうは「みっつのポジティブ要素とふたつのネガティブ要素」だろう。ふつうの価値観の是非はさておいて。いやむしろ受け取り手によっては「五つのポジティブ要素」かも知れない。

「アイデアがいい」「タイトルもいい」「表紙もいい」
このみっつ揃ったら、本はかなり売れるんじゃなかろうか。そのことの是非はさておいて。

しかしながら、それでも本は読まれ続けている。しかも、Amazonでも売れ続けている。なぜか?
それは、「表紙とタイトルだけで売れた」「アイデアはいいけど内容がない」「文章が下手」という意見に同調する人が、実はマイノリティでしかないだからだ。

違うって。「タイトルがいい」「アイデアが魅力的」「表紙見ていっそう読みたくなった」と感じる人がマジョリティだからでしょ。

ちなみに僕もそのマジョリティに含まれる。やっぱタイトルがいいんだよな。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」。見事なタイトルだ。見た瞬間にベストセラーを確信させられる。マネージャーがドラッカーを読んだらどうなるんだよ、知りてえよ、早く教えてくれよ。
 「女子高生」と「ドラッカー」がミシンとこうもり傘くらいにかけ離れている上に、ドラッカーってなんだかよく知らない上に、というより全く知らないけど、なんだかインテリっぽくて有り難そうだし、インテリっぽいだけじゃなくて、これ例えば「ハイデッガー」や「フッサール」だったらインテリっぽいだけだろう。それが「ドラッカーの『マネジメント』」だとなんとなくライフハック的あるいはホッテントリ的あるいは BIG Tomorrow 的な実用感というか、あなたの人生に生かせますよ的な何か、得られるものがありそうだし、高校野球の話だったら長くても最大3年で、かならず結末があるだろう。ああ、その結末とプロセスを読んでみたい。

「日経新聞読者の高給おっさん層の願望にマッチする不倫小説」がアイデアで、「失楽園」がタイトル。「老人介護の問題を赤裸々に」がアイデアで、「恍惚の人」がタイトル。「インテリおちゃらけ交友録と軽い文明批評を猫視点で」がアイデアで「我が輩は猫である」がタイトル。「高校バスケ部の話」がアイデアで「SLAM DUNK」がタイトル、という具合に、アイデアとタイトルは一般的には独立の要素だが、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の場合、アイデアとタイトルがほぼイコールだ。つまり、実用書っぽいタイトル。

実用書には「女医が教える本当に気持ちのいいセックス」「サルでもわかるDVDコピー」「冠婚葬祭入門」などのようにジャンルに特化した具体的なものも、「論理的に考えるための十のヒント」みたいに抽象的で応用効きそうなものもあるが、「もしドラ」は両者のいいとこ取りに成功した稀有なタイトルだ。高校の野球部という具体性があり、にもかかわらずスポーツ書コーナーではなくビジネス書コーナーに置かれ、高校球児ならぬビジネスマンに訴求し、のみならず、受験生なら受験に、主婦なら家事に、恋する乙女なら恋愛に、もしかするとセックスにも DVDコピーにも冠婚葬祭にも生かせそうな汎用性。の、予感。それを、タイトルが端的に表現している。「なんと意外なことに、野球にだって生かせるんですよ」と。

そう、よく考えてみるとかけ離れているのは「ドラッカーと女子高生」ではなく、「ドラッカーと高校野球」なのだ。血と汗と涙の代わりにドラッカーを。坊主頭にドラッカーを。人事とか商品開発とか会計とかに留まらず高校野球というような特殊分野にまで生かせるのだったら、それこそ「人生」全般に生かせそうだ。
 同様の特殊分野はいくらでもある。「もしDVDをコピーしたい人がドラッカーの『マネジメント』を読んだら」「もし餃子の王将の店長がドラッカーの『マネジメント』を読んだら」「もし女医がドラッカーの『マネジメント』を読んだら」などなど。いくらでもある中で、特に訴求力のありそうな解を見つけるのがセンスだ。高校野球。絶妙ではないか(とは言え、「もし餃子の王将の店長がドラッカーの『マネジメント』を読んだら」というのもそこそこ売れそうですね。自画自賛すみません)。
 で、さらに、「女子高生にだって理解できますよ」と。よし、表紙は女子高生にしよう。それも理知的な女子高生ではなく、叙情を湛えた深い絵とかでもなく、ごく普通な感じの親しみやすい女子高生のイラストで。見事である。売れて当然だ。その資格がある。

Amazon のカスタマーレビューで、こういうのを見かけた。「歌手で言うと、歌は下手くそだけどプロモーションが良くて売れるアイドルみたいな感じです。この本の担当編集の能力の無さは、筆舌に尽くし難いです。誰か腕のある作家さんがリメイクして欲しい作品です」
・・・下手くそなアイドルをプロモーションの力で売る担当マネージャーが無能? いやいやいや、それ、優秀だろう。仮にこの本が「アイデアとタイトルと表紙で売れた」のだとしたら、担当編集者は切れ者ということではないか。アイデアとタイトルが著者によるのだとしても、少なくとも「それを通した」という意味で。

・消された『もしドラ』のレビュー書いた人の新しいレビューがまた消されてる
・なぜ『エースの系譜』は売れなかったのか
・もしドラの作者は思い込みが激しすぎるのではないか
・「小説の読み方の教科書」を書き、それを伝えていくのがぼくの使命
・ひょっとしてライトノベルって表紙とタイトルだけが商品価値だったりするの?

◆◆

ところで、「オレの文章は下手じゃない。売れ続けてるのがその証拠」という論理ってどうなの。「売れてるものは優秀。売れてるものにケチつけるヤツはバカ」という近田春夫的な小室哲哉的な価値観もひとつの見識かも知れないが、それを標榜するのであれば、例えば「パフュームの踊りは糞」という主張は取り下げるべきではないか。パフューム売れてるんだから。
 「いや、パフュームが売れてるからパフュームの踊りは優れている、という論理は成り立たない、パフュームは楽曲がいいから売れている」と言われるだろうか。そんなら、もしドラは売れてるからもしドラの文章は優れている、という論理も成り立たない。

『もしドラ』を出してからというもの、世の中には小説の読み方が誤っている人、知らない人が多いということにも気づかされた。特にネットの世界では、誤った批評というものが数多く見受けられた。そうして彼らは、その誤った読み方ゆえに、肝心の面白さを見逃してしまっているのだ。
それが、ぼくにはとても「もったいないことだ」と思われたのである。小説も、正しく読めば、今よりずっと面白さを味わえたはずなのに、それをみすみす見逃してしまったのでは、お金も時間も損である。
そこで、そんな人が少しでも減るように「小説の正しい読み方をレクチャーすること」は、ぼくの一つの使命なのではないか――と考えるようになったのである。そうして、「小説を少しでも面白がれる人が増えれば、それは一つの社会貢献になる」とも考えるようになった。

こんなことを言いながら、どうしてこの人は、パフュームのダンスの価値を見逃してしまっているのは自分の見方が誤っているせいかも知れない、とは考えないのだ? ダンスも、正しく見れば、今よりずっと面白さを味わえたはずなのに、それをみすみす見逃してしまったのでは、お金も時間も損じゃないか。
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by nobiox | 2011-08-14 01:29 | ├自分用メモ | Comments(0) |
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