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2009年 11月 18日
Googleの検索欄に例えば「熱帯魚」と入れると、「熱帯魚 図鑑」「熱帯魚 通販」「熱帯魚 飼い方」など、よく検索されている語が候補として表示される。同様に「夫」に続けてスペースを入力すると、その候補のトップにくるのが「死んで欲しい」だそうだ。やってみると確かにそうなる。
しかしなあ………。夫に死んで欲しいと思ってる妻が「夫 死んで欲しい」で検索するだろうか。ラーメンを食いたいときに「ラーメン 食いたい」で検索するという素直な人も、中にはそりゃいるのかも知れないが、珍しいだろう。ほんとに死んで欲しいならむしろ「夫 殺し方」だ。 たぶん、Yahoo! 知恵袋に「夫にたびたび死んでほしいと思う私はもう離婚したほうがいいでしょうか」という相談があり、それが話題になって検索数増加、その後は検索ワード自体と検索数の増加自体が話題になって雪だるま式にスパイラル効果、というようなことじゃなかろうか。実際にヒットするページは検索数を話題にしたものがほとんどで、夫の殺し方についての実用的な情報なんて、当たり前だがぜんぜん出てこない。 2009年 11月 11日
YouTube からメールが来た。
Dear nobiox, いくら当方が著作権にルーズだからといって、録画したテレビ番組で稼ぐわけにはいかないが(しかも拾い物)、しかし、なるほどこういうシステムがあるんですね。 本日16時の時点で再生回数 38,779 回となってるけど、これまで気にしたことがなかったのでここ数日でぐいっと上がったのかどうか数字では判断できない。中里に思い入れがあるのは中日の選手だからなのに、「巨人が獲得へ」となっていきなり注目されるというのは複雑だ。やっぱ、巨人ファンってそんなに多いのか。 2009年 10月 25日
10/22 中日スポーツ「竜CHANGE CS編」発端となったこの記事は
伊原コーチが吉見を非難 セCS [ 共同通信 2009年10月22日 23:24 ] 中日・吉見、ドーピング禁止規定違反容疑で聴取 [ 読売新聞 2009年10月23日6時51分 ] 吉見へのやじを禁止 セCS・巨人の原監督 [ 共同通信 2009年10月23日 23:03 ] 伊原ヘッドコーチ「中日は認識が甘い」[ スポニチ 2009年10月23日 ]渦中の吉見は23日の試合に先発した。この話題はスポーツ新聞に始まり、朝日や読売など一般紙も報じたが、不気味なことに、23日の試合を中継したテレビもラジオも、その夜のスポーツニュースも、一言たりともこの話題に触れなかった。理由はわからない。私が知らないところで触れられていたのかも知れないが。 中日・吉見はシロ「ドーピング疑惑]NPBが見解 [10月25日8時0分配信 スポーツ報知 ] 中日スポーツの記者もデスクも吉見もアホだったが、中日の球団ドクターはさすがにアホではなく、それらしいカルテをちゃんと書いていた、と。「疲労回復目的ではなく、病気の治療だった」という見解が出た以上、中日スポーツは「別にケガをしたり、病気をしたりしているわけではない」「疲労の回復に効果があると聞いて」といった記述について、誤報でしたごめんなさい、病気の治療でした、という訂正記事を出すのが筋だろう。しかしそんなことをすれば別の意味で(より深刻な意味で)白々しさが際立つことを恐れて、出せないのだろう。だって白々しいもんな。病気なら登録抹消して治療しろよ、なに先発してんだよ、って話である。 NPBに期待できない以上、選手会は何をしているのか。「疲労回復のためにニンニク注射を愛用しているプロ野球選手は多い」と書いた清水祐介記者にその根拠を聞いて、聞いた結果を公表するとか。カルテの開示を要求するとか。全選手にアンケート調査するとか。規定の改正(ニンニク注射はすべてNPBに届け出を義務付け、NPBはそれをすべて公示するだとか)を提案するとか。いくらでもやることはあるだろう。選手会が球場施設の改善だの、日程の緩和だのを要求してはことあるごとにストライキをちらつかせるたびに、プロ野球ファンは選手会に反感を抱くわけだが、こういう時に声を上げ、実態を調査し、実態を白日の下に晒し、正義の味方として振る舞えば、プロ野球ファンは熱く選手会を支持するはずだ。プロ野球ファンが選手会を支持する度合いが上がるということはすなわち、プロ野球人気が上がるということで、それこそは個々のプロ野球選手にとって福音だろう(福音なんて言葉を使うのは生まれて初めてなので、言葉の使い方が間違ってるかも知れないが)。 中日ファンとしては、吉見にお咎めなしなのは本気でうれしいけど、吉見の最多勝が取り消しになったとしても、中日ドラゴンズの2009年の戦績がすべて取り消しになったとしても、本気で実態が追求された結果であるならばその方がいいと思う。吉見は「僕はこの件に関してプライバシーを放棄するので、カルテの公表を要求する」と声明を出してくれ。あるいは、自分でカルテを入手して公表してくれ。そうしないなら、吉見には何かやましいところがあるんだな、と、オレは勝手に判断する。判断と言って悪ければ、個人的感想を持つ。選手会が何もしないなら、多くの選手が実態解明を望んでないんだな、という感想を持つ。伊原春樹や清武英利がこのまま発言をやめるなら、巨人も実態解明を望んでないのだという感想を持つ。このエントリーは主に選手会に対する期待として書いているのだが、もちろん、伊原春樹や清武英利や原辰徳や落合博満にも期待している。吉見一起にも。 2009年 10月 25日
回転の少ない球は重いというのはほんとうか。20年以上考えてきたが、もう私の中では結論は出た。回転の少ない球が重いというのは迷信である。
20年以上考えている疑問は他にもいくつかある。なぜ新橋は「SHIMBASHI」か、というのもそのひとつだ。なぜ新橋は「SHIMBASHI」か、なぜ難波は「NAMBA」なのか、知っているつもりだが、しかし、完璧に説明することができない。20年考えても。つまり知らないということだ。 ネット上を検索すると、なぜ新橋は「SHIMBASHI」か、解説は山ほど見つかる。例えば「ヘボン式ではBとPとMの直前のンはMと表記する。そういう決まりだからだ」とか。「昭和22年7月26日付けの鉄道掲示規程によるのだ」とか。「ヘボン式とは英語式表記だからだ」とか。「西ヨーロッパ言語では、BやPの前の "ん" はMになるという法則がある」とか。「単に発音通りに表記するとそうなるんだよ」とか(これを調べているうちに、ヘボン式を作ったヘボンさんという人は「ヘップバーン Hepburn」さんだ、ということを初めて知った)。なるほどどれも正しい。しかし、満足できない。この問題についての説明には、少なくとも以下の要素が含まれていて欲しい。 ・日本語を母語とする者は「ン」を「N」と発音したり「M」と発音したりしている。 ・日本語を母語とする者にはその自覚がなく、「N」と「M」を意識の上では区別していない。 ・「N」と「M」を区別しない言語は世界的に稀だ。 ・駅名表示のルビは基本的に外国人のためにある。 ◆◆ 「新宿」と発音するとき、ふつう両唇は一度も閉じない。ところが、「ん」という字を1文字見せられて、読んで、と言われると、たいていの日本人は唇をぴったり閉じて「ん」と発音する。「新橋」「少年ジャンプ」「アンパンマン」「範馬刃牙」の「ン」はこれだ。ここから何がわかるかというと、日本語の「ン」には「唇をあけて発音するン」と「唇を閉じて発音するン」の2種類(註)あるということ、かつ、日本人はそのふたつを区別せず、「どっちも "ン" でしょ」と思ってるということだ。 日本人向けのルビなら、「SHINBASHI」あるいは「SINBASI」の方が自然だという考えも成り立つ。間違いではない。が、駅名表示のルビは基本的に日本語が読めない人のためにある。また、世界中の人が「唇をあけて発音するン」と「唇を閉じて発音するン」を区別しないのであれば、やはり「SHINBASHI」あるいは「SINBASI」と書けばいいだろう。しかし、そのふたつを区別しない言語は世界的にみて珍しい。少なくとも、韓国語でも中国語でも英語でもスペイン語でも、「唇をあけて発音するン」と「唇を閉じて発音するン」は全く違う音だ。アルファベットで書くなら前者は「N」、後者は「M」。 NとMは全く違う音だと思ってる人たちは、つまり多くの地球人は、「SHINBASHI」と書いてあったら律儀に「SHINBASHI」と読もうとする。しかも英語の「N」は日本語の「ン」と違い、「舌先が必ず上歯茎につく形で発音され」るんだそうで、英語を母語とする者にとって「N」の直後に「BA」を発音するのは非常に難しいらしい。発音しにくい地名だなあ、と思っていると、なんと、日本人は平然と「SHIMBASHI」と発音しているではないか。なんだよ、MでいいならMって書いといてくれよ、と、そういうことになる。逆に日本人は「ン」1文字を、ある時はN、ある時はMと無意識に柔軟に運用することに慣れているので、「SHIMBASHI」だと「シムバシかよっ」と言いたくなってしまう。以上は完璧な説明とは到底思えないが、説明する試みのひとつです。 註:主な「ン」は「N」「M」「ng」の3種類ある(主な、というのは日本語に多く出現するという意味ではなく、「N」「M」「ng」はメジャーな言語の多くで区別されている、ということ)。標準的な日本人が発音する「免許」「関係」「韓国」の「ン」は多くの場合、発音記号(?)で書くと「ng」だそうだ。私の耳ではわからんけど、普通の韓国人にはわかるらしい。さらに言えば、例えば「パンダ」の「ン」と「パン粉」の「ン」と「パン屋」の「ン」では舌の位置や喉のかたちが違うはずで、厳密に言えば「ン」は何種類もあるということになる。
2009年 10月 19日
「家族的経営」と「心中」したがる私たち(小田嶋隆) この記事には家族的経営の話や心中の話や太宰治の話が書いてあるけど、この記事中のいちばん優れた指摘は、殺人事件の半分以上が家族殺しだと言うが日本は殺人事件自体が少ないんだよという、つまり「数字の嘘」「統計の嘘」の部分じゃなかろうか。小田嶋隆はいつも、いろんなことを書き過ぎる。それにしても殺人事件がロシアで多いというのはなんとなく(ロシア人には申し訳ないけど)納得してしまうが、イギリス、スイスの高さは意外ですね。 ところで心中というのはどうも、別に日本独特の現象ではないようだ。小田嶋隆のこの記事についたコメントの中に 「一家無理心中」を表す英単語に"familicide"があります。これについては町山智浩さんが「ニューズウィーク」(2009.6.3付け)で「不況下で増える悲しい「ファミリサイド」」というコラムを書いていらっしゃいます。わたしもこのコラムを読むまで一家無理心中は日本人特有の心性だとずっと思っていたので、「目からウロコ」でした。 というのがあった。WikipediaのFamilicideの項目には、無理心中はアメリカにおいて「most common form of mass killings」だと書いてある。 またWikipediaによるとオーストリア皇太子ルドルフ(Kronprinz Rudolf, 1858年8月21日 - 1889年1月30日)の死の真相は今もなお謎で、「はじめは『心臓発作』として報道されたが、じきに『情死』『心中』としてヨーロッパ中に伝わり、様々な憶測を呼んだ」だそうだ。真相がなんであれ、「情死」「心中」としてヨーロッパ中に伝わったのだとしたら、ヨーロッパ人にもそういう概念はある、ということだろう。「ロミオとジュリエット」だって、あれは無理心中の話ではないし、心中の話でもないけれど、愛する人が死んでしまったので自分も自殺するという話なんだから、心中のメンタリティに割と近いのではなかろうか。また、LiveDoorNews でこういう記事を見つけた。 2009年7月7日、日本華字紙・中文導報によると、この1週間で中国人刺殺事件、心中事件などが続いて起こっている。 2009年 10月 16日
「酒と蘊蓄の日々」というブログがおもしろくて、さいきん毎日読んでいる。自分用の「読書日記」をつけることにした。今日はブレーキ痕について。
ブレーキ痕 「酒と蘊蓄の日々」を書いてる石黒さんという方は「元自動車業界人で現在は機械メーカーに勤める日本人」だそうで、だからこれは勘やイメージで言ってるのじゃなく、実態を知ってる人の発言である。ABS付であれば路面にブレーキ痕が残るなんてことはまずない。なるほどなあ。私は自動車を持ってないので、まあ知らなくても当然(とは言え頭文字Dおよび湾岸ミッドナイトの愛読者としては恥ずかしい)だが、ドライバーにとってはよく知られた事実なんだろうか。たぶんそうでもないんだろうな。普通の人は高速走行からブレーキ一気にベタ踏みなんて機会はあんまりないだろう。だからこそ新聞記者も「現場にブレーキ痕はなかった」なんて書いたり、デスクもその記事に疑問を持たずOK出したりするんだろう。警察はどうなんだろうか。警察は定例会見での質疑応答で「それで、現場にブレーキ痕はあったのですか」とか新聞記者に訊かれた場合、その質問はABS搭載の有無とセットでないと意味ないよ、とか、うん、なかったけど、報告によるとABS付きだったらしいから、ブレーキ踏んでないのかどうかはわからんね、だとか答えるのだろうか。 長年刷り込まれてきたイメージを打ち消すのはなかなか難しいが、なんとか打ち消すように努力をしよう。「清原は自分のことをワイと言う」「相撲取りは自分のことをワシと言う」「刑事は容疑者にカツ丼をおごる」「日本の裁判官は木槌で机を叩く」「全身に金粉を塗られると窒息する」「回転の少ない球は重い」「名古屋の人は毎日海老フライばかり食べている」等々、事実でないのにイメージで世間に刷り込まれてきた迷信はたくさんある。急ブレーキを踏めばアスファルトに黒々とタイヤ痕が残る、というのは長年にわたって事実だったわけだが、今では、事実とは限らない、と。 「全身に金粉を塗られると窒息する」という与太話の起源は「007 ゴールドフィンガー(小説は1959年刊、映画は1964年)」だが、今の十代や二十代はそもそもそんな話を聞いたことがないという人の方が多い。もしかすると遠からず死語となるかも知れない。「急ブレーキを踏めばアスファルトに黒々とタイヤ痕が残る」という話はどうなるだろうか。同じように、やがて死に絶えるだろうか。たぶん、そうはならない。いくらABSが普及しようが、子供たちはやっぱり上履きで学校の廊下を滑ったり、靴下で病院や体育館の床を滑ったり、運動靴で地面を滑ったり、自転車のタイヤを滑らせたりして、「滑る」「ズルズル」の実感を蓄積するだろう。「タイヤ痕」には体感上の裏付けがあるのである。 フィクションにおいては効果音の問題もある。例えば映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は大型トラックによる死亡事故のシーンからいきなり始まるのだが、ギャルルルギュウワキイイイイイイイイイイイイイ、という、悲痛な、遠吠えのような、何か取り返しのつかないことが起こりましたよと告げるような、胸を引き裂くような、鼓膜をつんざくような、黒板を掻きむしるような、あのおなじみのブレーキ音が響き渡り、路面には黒々とタイヤ痕が描かれる(途中から血で赤くなる)。ABS付きだとほとんど滑らないということは、ABS付きだとあの音がほとんどしないということだ。悲劇の象徴として、あの効果音はなかなか外せないだろう。そしてあの音があれば必ずあのタイヤ痕は残る。映画の中の急ブレーキシーンでは、ABSはなかなか主流にならないのではなかろうか。長年刷り込まれてきたイメージを打ち消すのはなかなか難しい上に、今後もそうした刷り込みは続くわけだ。それでも、なんとか打ち消すように(というか、ABSもあるよと思い起こすように)努力をした方がいいと思う。 ◆ ◆ ついでにもうひとつ、Wikipediaで今日読んだ話。多くの車種では、ABS作動中はブレーキペダルが振動する。それに驚いてブレーキペダルから足を離す人が多い。離すと危ない。乾燥した舗装路面でも、マンホールの蓋や砂・砂利なんかの上でブレーキをかけるとABSが作動してブレーキペダルが振動することがある。そのため、新車を買ったばかりなのにブレーキが故障したなどとトンチンカンな苦情が持ち込まれることも少なくなく、自動車販売店では車両販売時に重要な注意点として顧客に説明している。 2009年 10月 14日
前の記事では、10年後に東京をカーボンニュートラル都市に、という公約の胡散臭さについて書いた。しかしカーボンニュートラル都市が実現しなくとも、カーボンニュートラルオリンピックは実現するのかも知れない。パチンコを例にしよう。お父さんが毎週日曜日に1日中パチンコに行く。自分の小遣いでやるのであればお父さんの勝手にすりゃあいいだろうが、家計費でやってるとする。勝つ日もあればへこむ日もあり、トータルでトントンだとする。で、あれば、仮に家計全体が赤字だとしても、パチンコはそれを悪化させてはいないわけで、この場合パチンコは「マネーニュートラル」と呼べるだろう。したがって「持続可能」とも呼べる。そういう可能性はあるのだろうか。「Tokyo 2016 - 東京オリンピック・パラリンピック招致委員会」公式HPにはこう書いてある。
【カーボンマイナス・オリンピックになります】 【オリンピックにより東京の環境は大きく改善されます】 「オリンピックによって、環境は破壊されるどころか、大きく改善されることになります」。何を言ってるんだ。海上森林公園の整備や校庭の芝生化や街路樹の倍増なんて、やるべきならやればいいし、やるべきでないならやらなきゃいいわけで、オリンピックが来ようが来まいが関係ないだろう。なぜそれが「オリンピックによって」なのか。ちなみに緑化自体は長期的に見れば大気中のCO2を増やしも減らしもしない。そのことは前のエントリーで述べた。 東京都の公式HPにはこう書いてある。 校庭芝生化キャンペーンを実施|東京都 「緑あふれるオリンピックの開催を通じて環境の大切さを世界に伝えよう!」だってさ。もうね、アホかと。公立小中学校の校庭を芝生化することが、世界に向けて環境の大切さのアピールになる、わけがないだろう。世界中からオリンピックを見に来る観光客が、こぞって学校の校庭も見学していくとでも言うのか。BBCのオリンピック取材キャスターも校庭の芝生に目を見張り、カメラの前で、TOKYO の環境への取り組みの先進性に深甚な感銘を受けるのか。あり得ないだろう。また、もちろん校庭の芝生化とオリンピックにはどういう関係もない。やるべきならやればいいし、やるべきでないならやらなきゃいい。また、緑化自体は長期的に見れば大気中のCO2を増やしも減らしもしない。芝生化の工事のためにどれほどのトラックが走りどれほどのブルドーザーが必要なのか考えれば、短期的にもむしろ増えるような気がするんだが、正確なところは知らない。 プレスリリース - 2009年 - 水素・燃料電池実証プロジェクト -JHFC 2006年時点で価格が1台数千万円から数億円で、水素の製造段階で発生するCO2はガソリンや軽油を精製するよりも多いという燃料電池自動車が長期的に見てほんとうにCO2排出量を減らすものかどうか、はなはだ疑問だ。で、仮に排出量を減らすとしても、それは大気中のCO2を減らすこととは根本的に違う。おならをほとんどしない人は、おならが少ないことを自慢してもいいかも知れないが、いくらおならが少なくても大気中のメタンガスを減らすわけではない。燃料電池自動車でカーボンマイナスが達成できると言うとしたら、おならが少ない人が「おならマイナスパーソン」を名乗るくらいにバカバカしい話だ。それに、もし、燃料電池自動車の導入がトータルな意味で地球環境にとってプラスだというのなら、オリンピックと無関係に導入すればいいじゃあないか。 例えばですよ、「すでに東京都の公用車はすべて燃料電池自動車にしました。すべての都バスも燃料電池バスにしました。それらのアピール効果によって東京都民の自家用車もすでにけっこうな比率で燃料電池自動車に置き替わっています。それが地球にも都民の家計にも優しいという明白なデータも出ています。にもかかわらず、なぜだか世界的には燃料電池自動車はほとんど普及していないのです」という状況があるのであれば、「オリンピックを通じて世界にアピール」という構想も理解はできる。しかしそんな現実は、ぜんぜん、ない。その上でオリンピック関連の用途だけ無理して高い予算を投入して燃料電池車を使うという、いわば、デートの時だけ化粧をする、みたいな、来客がある時だけ家の掃除をする、みたいな背伸びをして、しかもそこまで無理しても残念ながら「『走行中に』排出するのは水だけ」というような限定的メリットしかアピールできない、というレベルで、一体それがどういう意味で地球環境に優しいと言えるのか。少なくとも、燃料電池自動車が大気中のCO2を「吸収」しないのは間違いない。 ◆ ◆ 2016年東京オリンピック基本方針〈概要版〉には 東京しか持ち得ない集中と集積のメリットを最大限に活用した世界一コンパクトで高密度な大会 とある。持続可能なオリンピックと言うなら、「このノウハウを生かせば今後どこでやっても持続可能ですよ」と言えることが必要だろう。持続可能なオリンピックと言いつつ「東京しか持ち得ないメリットを最大限に活用」と謳うところが、根本的に馬鹿じゃないかと思うんだが。我々はカーボンニュートラル(またはマイナス)を目指しますよと宣言するのはいいだろうが、「東京しかできない」と言うなら、それは「持続可能」と、根本的に矛盾するのである。 ・酒と蘊蓄の日々「絵に描いた餅」 2009年 10月 11日
(以下に書くことは、CO2の排出を減らすことが地球環境のために善である、という仮の前提に立っての話です。この前提が正しいという証拠は、今のところ、ないと思う)
石原慎太郎が熱烈に推進した2016年東京オリンピック構想は、「カーボンマイナスオリンピック」を目指すというのが最大の売りだった。東京都の2016年オリンピック招致活動は敗北に終わったが、東京都の招致構想がどんなものだったのか、正確に知ってる人は少ないのではないか。私はよく知らない。今からでも改めて知りたい。カーボンマイナスオリンピックってなんだ。2009年10月現在、すでに削除されているようだが、Googleのキャッシュによると、2009年3月には G-ForSE のサイトにこういう記事があったらしい。 【東京2016がカーボンマイナス・オリンピックの実現に努力】 G-ForSE (Global Forum for Sports and Environment) というのが何なのかわからないが、このサイトには「G-ForSE 組織図」として下のような図が載っている。東京都が作った組織なのだろうか。 図に「GSA」というのが描いてあるが、これは「NPO法人グローバル・スポーツ・アライアンス」の略で、「GSAはスポーツを通して環境に取り組む団体で、 スポーツマンシップの一環として『エコプレー』の実践を呼びかけているスポーツ愛好家の世界的ネットワークです」ということだそうだ。 なんだかわからないがとにかくこの「G-ForSE」なる組織の記事によれば、東京都は2009年から10年計画で「カーボンマイナス都市」を達成する、という「革新的な公約」を打ち出していたらしい。カーボンマイナス・オリンピックなんてものはその反映に過ぎないらしい。まじですか。鳩山由紀夫新総理大臣がニューヨークの国連気候変動首脳会合で、2020年までに1990年比25%削減を目指すとスピーチして世界と日本を驚かせたのは9月22日のことだ。マニュフェストに大書してあったことに後から驚いてみせる日本人もどうかと思うが、とにかく25%削減なんてことは現実には不可能だろう、みたいな意見が多い。私も今のところそう思う。ところがなんとその半年前に、東京都は、10年でカーボンマイナス都市になって見せると宣言していたのである。みなさん知ってましたか。私は知らなかった。石原慎太郎という人はオリンピック招致を自らの花道と考えるからこそ情熱を燃やしているのかと思っていたが、カーボンマイナス都市というのは(CO2温暖化脅威論に立てば)オリンピック招致どころではない偉業だ。10年後の東京が達成したとしたらノーベル平和賞も夢ではない(ヨーロッパはCO2温暖化脅威論の本場だし、ノーベル平和賞はノルウェーで決まる)。ノーベル文学賞を目指した青年が数十年を経てノーベル平和賞。石原老人にとってこれ以上の花道があろうか。オリンピックが来るか来ないかなんてことはもはや些事である。これほど強烈な公約がメディアでほとんど話題になってないのは何故なのか。 家計が毎月10万円の赤字だとする。25%削減する、と鳩山演説は言った。つまり赤字を7万5千円にまで縮小して見せる、と。一方石原慎太郎率いる東京都は、黒字にして見せる、と言っている。2万5千円のカットですら非現実的とか具体策が見えないとか言われる中、10万円まるまるカットしてさらに黒字を出すと。25%の削減計画が不可能視されるなら、「100%を上回る削減」計画がさほど突っ込まれずにいたことは不思議だ。 「カーボンマイナス」とはどういうことなのか知るために、とりあえず「カーボンニュートラル (Carbon Neutral)」 という概念について知ろう。そうすればカーボンマイナスとは何か、おのずとわかるだろう。Wikipedia にはこう書いてある。 【カーボンニュートラル】 要するに、カーボンニュートラルを達成するということは、非・化石燃料ですべての電力(や熱)需要をまかなうということだ。 例えば樫の木を大規模に植林する。木は成育の過程で光合成により空気中の二酸化炭素を取り込む。つまり、木の成分の炭素は、空気中の二酸化炭素に由来する。じゅうぶんに育ったところで伐採し、炭を作り、それを暖房や煮炊きに使う。使う過程で炭素はCO2のカタチで空気中に還る。炭の需要が森の成育ペースを上回れば、何十年、何百年のうちに森は次第に痩せていき、空気中のカーボンが増えていくだろう。そうでなく、人が炭を燃やすペースと森がその材料を供給するペースが釣り合っている限り、トータルで見て空気中のカーボンは増えもしないし減りもしない(暖房や煮炊きのぶんに限った話。呼吸のぶんまで入れるとどうなるのか、いまのところ理解してない)。とりあえずこれが「カーボンニュートラル」のモデルだ。 しかし木炭は発電には向かない。ならばサトウキビ、もしくはトウモロコシを大規模に栽培してはどうか。サトウキビは成育の過程で光合成により空気中の二酸化炭素を取り込む。じゅうぶんに育ったところで収穫し、それを原料にエタノールを作る。そのエタノールを発電に使う。これが流行のバイオエタノール。「サトウキビが成長の過程で空気中から吸収する二酸化炭素」と「発電および電気消費の過程で空気中に放出される二酸化炭素」の量が釣り合えば、それがカーボンニュートラルだ、と。 というか、1回だけ釣り合ってもほとんど意味はなく、この「吸収」と「放出」のサイクルを何年にもわたって循環、維持してはじめて「カーボンニュートラル」と呼べるわけだ。1回目に収穫したら次を植え、2回目が育ち切るまでの期間を、1回目のぶんのエタノールでしのぐ必要がある。また、1回目のぶんの「放出」量が、2回目の「吸収」量と釣り合う必要もある。とうぜん、エタノールの精製、輸送、保管に必要なエネルギーもこのサイクル内に収めることが必要だ。 「必要だ」というのはつまり、カーボンニュートラルと「呼ばれるには」「名乗るには」そうなってる必要があるということで、実際にはニュートラルを厳密に達成しなくとも、化石燃料をバンバン燃やすより少しでもマシ(食料問題を考えるとどうか、とか、地下水枯渇の問題はどうだ、とか考えると、そう簡単な話ではないんだろうが、ここではカーボン問題に限って言えばマシ、という限定的な話)であれば、挑戦する価値はあるだろう。ただ、少しでもマシ、というレベルを超えて「カーボンニュートラル」の達成を目指すとしたら、それはとてつもなく高い壁である。現代日本人の平均的生活レベルを維持した上でカーボンニュートラルを達成するなんてことが、できるとはちょっと思えない。いや根拠は単に私の勘だが。「1年間に日本の国土で栽培できるサトウキビで、1年間の日本の電気およびガス需要のすべてを賄う」かつ、「1年間に日本の国土で栽培されるサトウキビが、1年間に日本人が電気およびガスの使用に伴って放出するCO2のすべてを吸収する」なんてことが、果たして可能だろうか。Wikipedia によれば、日本が「国家レベルでのカーボンニュートラル」を達成するためには「国土面積の約7倍にあたる269.7万haが更に必要」だそうだ。 ◆ ◆ 達成のための具体策としては、省エネ技術 / 低公害車・無公害車の利用 / 再利用ポリエステルの活用 / 海の森や街路樹増植や校庭芝生化などによる緑化 / 太陽、風力発電などの利用、などが挙げられている。 ▼省エネやら低公害やらの技術は赤字の縮小には確かに役立つはずだが、カーボンニュートラルの達成のためには根本的に足りない。そこにはエネルギーを「生産する」過程が含まれていないからだ。カーボンニュートラルというのはエネルギーの生産、精製、使用を 生産→収穫→精製→使用 →→→生産→収穫→精製→使用 →→→→→→生産→収穫→精製→使用 →→→→→→→→→生産→収穫→精製→使用 →→→→→→→→→→→→生産→収穫→精製→使用 →→→→→→→→→→→→→→→生産→収穫→精製→使用 →→→→→→→→→→→→→→→→→→生産→収穫→精製→使用 と輪唱のように繰り返しながら CO2 の収支をトータルでプラスマイナスゼロにすることを指すわけで、いくら CO2 排出量を削ってもゼロにはできない以上、それだけでは絶対にカーボンニュートラルなんてことは達成できない。それに、石原慎太郎がことあるごとに得意げに持ち出す燃料電池自動車というのは、現状でほんとうに環境に優しいのだろうか。私が聞いた風聞では、燃料電池自動車というのは2006年時点で価格が1台数千万円から数億円だそうですよ。しかもだ、「水素を燃料とした燃料電池車は確かに走行時にはCO2を発生しない。しかし燃料である水素は自然界に十分に存在するものではないため、人工的に製造しなければならない」のであり、水素を製造する段階で発生するCO2は「ガソリンや軽油を精製するよりも多い」らしいですよ(それでもガソリンや軽油を燃やすより少なければいいような気もするが)。 ▼緑化はどうだろう。「海の森」プロジェクトのホームページにはこういう記述がある。 東京湾に浮かぶ、ゴミと残土で埋め立てられた中央防波堤内側埋立地。この、高さ30メートルにおよぶゴミの山に苗木を植え、美しい森に生まれ変わらせる計画が「海の森」プロジェクトです。苗木は、市民の皆様と民間企業からの募金によって調達・植樹します。 たしかに植物は光合成によってCO2を吸収する。しかし植物はいつかは朽ちる。朽ちれば、成長過程で取り込んだCO2を放出する。つまり、長期的に見ればいくら植物が増えても(数十万年から数千万年をかけて化石燃料となるぶんを除けば)大気中のC02は減らない。ただ、放っておけば単に空気中に還っていくCO2を、人間が精製して集中的に効率的に燃やせば、単に還って行くのでなく、その放出過程で電気を取り出すことができる。カーボンニュートラルというのは私の理解ではそういうことだ。いくら緑を増やしたってそれをエネルギー源にするわけでなく、必要な電力は石油で調達しますというのでは、どう考えてもカーボンニュートラルを名乗る資格はないだろう。まして「ニュートラルを超えてマイナス」か。まあ、なにぶん Wikipediaを1ページ読んだだけという分際なので、私も自分の見解に特に自信はないが。 ▼太陽、風力発電はどうだろう。東京都の電力需要を、都内の太陽または風力発電設備のみで100%(設備の建設、維持、太陽電池をはじめ各種機材の製造加工運搬のコストまで含めてトータルで)まかなうことができるとしたら、とりあえずは(実際にそんなことになったら温暖化ガス問題とは別の意味で気候に深刻な影響が出そうな気もするんだがそれをさて置けば)夢のような話で、それならたしかに「カーボンニュートラル」と呼べるのかも知れない。でもまあ、実現するとはちょっと思えない。詳しくは知らないけど。我々無垢な素人は太陽電池とか風力発電とか聞くだけで何か根本的なクリーンエネルギーでもあるかのように過剰な幻想を抱きがちだが、10年後までに太陽発電所をどことどこに何基設置するつもりなのか、それに必要なソーラーパネルはどれほどの量で、それだけの半導体シリコンの生産にどれほどの電力が必要なのか、風力発電塔をどことどこに何本設置するつもりなのか、それで何キロワットの発電が可能なのか、それらの初期コストはどれほどでランニングコストはどれほどなのか、エコキュートとかエネファームとかは10年後にどの程度普及してるという算段なのか(エコキュートやエネファームがどういうものかはよく知らずに書いてます)、具体的な試算があるなら教えて欲しいものだ。そもそも太陽、風力より原子力の方が非・化石燃料の候補として現実的なような気がする(「原子力発電がエコである」とか主張したいわけではない。原子力発電の環境負荷は計り知れない)が、石原慎太郎の傍若無人を以てしても、さすがに東京都内に原子力発電所を造ると宣言する勇気はないということなのだろうか。 ▼もうひとつ、「CO2排出権との相殺」というヤツがあるはずだ。「CO2排出権」を、発展途上国から、金で買うというような話が。これをどう考えるべきかについて、まだ私には定見はない。 ▼というか、「カーボンマイナス東京10年プロジェクトの目標 ⇒ 2020年までに、東京の温暖化ガス排出量を2000年比で25%削減 」だなんて書いてるのを見ると、もしかするとこの連中は「CO2の排出量を減らすこと」イコール「カーボンマイナス」と考えているのかも知れない。だとしたらアホとしか言いようがない。だとしたら「世界初のカーボンマイナスオリンピック」というのはどういう意味なんだろうか。 ◆ ◆ 以上を簡単に要約すると、10年後に東京をカーボンニュートラル都市に、なんて公約はとても信用できん、ましてマイナスだなんてあり得ねー、ということです。だいたい石原慎太郎は2007年の時点で五輪招致の意義を「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」と語ってた男ですよ。環境重視なんて後付けとしか思えないではないか。(続く) ◆ ◆ 森や街路樹や校庭の芝生化にCO2の増加を抑える効果があるのかどうかについては、下記「酒と蘊蓄の日々/似非エコロジーを公共事業に利用する東京都」という記事がたいそう勉強になりました。 ・酒と蘊蓄の日々 似非エコロジーを公共事業に利用する東京都 (その1) ・酒と蘊蓄の日々 似非エコロジーを公共事業に利用する東京都 (その2) ・燃料電池車の時代は当分来ない:日経ビジネスオンライン ・都市環境プランナーの処方箋 2009年 08月 17日
原作:山崎ナオコーラ / 監督:井口奈己 / 松山ケンイチ, 永作博美, 蒼井優, 忍成修吾 / 2007年
★★…………おもしろいところもありました ぼんやり見ていたエンドロールに、あがた森魚という名前を見つけて驚いた。きなこ餅の食べ方をレクチャーする、妙な魅力のあるあのおっさんは誰だ、イッセー尾形じゃないし、とか思っていたのである。あれは、あがた森魚だったのか。古い知り合いに意外なところで遭遇するのはちょっとうれしい。いやかなりうれしい。先日「メリーに首ったけ」でジョナサン・リッチマンを見たと思ったら、今回はこんなところであがた森魚か。とか思ううちに、さらに、MariMari というクレジットを見つけて驚いた。MariMari というのは、あの MariMari だろうか。あがた森魚という名前ならまさか同姓同名異人ということはないだろうが、MariMari を名乗る女なら複数人いても不思議ないのではないか。いやしかし・・・。MariMari は「画家」の役だと書いてあった。画家というと、あのシーンでサイババだかダライラマだかの名を出したあの女か。ああ、あれはなるほど、もしかするとあれこそが MariMari その人なのかも知れない。あんなに若いのか。20代に見えたが。佐藤伸治も生きていればあれほど若いのだろうか。オレはジョナサン・リッチマンにもあがた森魚にも特別な思い入れがあるが、MariMari はさらに別格だ。無人島に持っていく100枚にジョナサン・リッチマンもあがた森魚もたぶん入らないが、MariMari アンド・ザ・リズムキラーマシンガンズ、だったかな、いや「MariMari rhythmkiller machinegun」か、バンド名には自信ないが、あの(佐藤伸治健在時代の)何枚かは確実に入る。いや、というかしかし、ところでさっきから流れているこのエンディング曲は。 ボーカルに集中してメロディラインを追い、ようやく気付いた。これはフィッシュマンズのあの曲ではないか。しかも歌っているのは MariMari だ。サウンド担当は「HAKASE SUN」という人らしい。その名前は初耳だったが、どうもフィッシュマンズのキーボードだった人らしい。そうなのか・・・ 枯山水のようなフィッシュマンズの音楽と違い、この映画での HAKASE SUN の音は猥雑なロンドンのパブのようで、違うんだよなあ、と舌打ちしたいような気分もあるが、しかし「意外な場所で意外なアレンジで既知の名曲のメロディに遭遇する」のはレゲエ・リスナーの楽しみのひとつでもある。これはこれでアリなのかも知れない。まあ、こんなことは映画とはほとんど無関係なんだが。 ◆◆ 本棚の奥から「GARO / 2001年10月号 / 丸尾末広ジェネレーション」というのが出てきた。丸尾末広がジーコ内山という人のインタビューに答えている。 −−今の日本映画の状況についてはどうお考えですか。 ほんとにそうだ。「人のセックスを笑うな」が賞狙いだったのかどうかは知らないし興味もないが、できあがった映画はとにかく「何か『シーン』としてて、カメラも長回しで、ジーッとしている人物を長々と(笑)」だ。またかよ。 Amazonのレビューには例えば「現代の映画やドラマはカット数がどんどん増えてきているそうですが、短いカットを 次々と見せられることに慣れてしまうと、こんなふうにひとつのカットをじっくり 見て考えるのが苦手になってきているのかもしれません」「 最近の映画は、カットが多く台詞も多く作りがごちゃごちゃしているように感じていたのですが、この作品はゆったりと時間が流れていて、なにより”間”がある」といった声もある。最近の日本映画に長回しが皆無なのであれば、なるほどこういう意見も理解できるのだが、実際には我々は、いやオレは、日本映画を観るたびにシーンとした長回しばかり見せられ、うんざりしているのである。またかよ、これもかよ、という感想しか出てこない。 それでも、いいところもありました。ラスト近くのえんちゃんと堂本くんの絡みなんか絶品で、萌えた。その他も「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のようなもんだと思って観れば、それなりに良さも感じられるのではないか。1回観るぶんには退屈だが、100回流しとくバックグラウンド環境用途には気持ちよさそう、と言うか。 ただ、永作博美も蒼井優もカワイイ系でサワヤカでちょっと不思議ちゃんな感じで、おおざっぱに言って同じタイプに思える。だから「蒼井優じゃダメで永作博美に溺れる」という19歳の美大生の心情が、いまいちピンと来なかった。あの役はもっと太ったダサイおばさんじゃないとなあ。永作博美じゃ子供っぽ過ぎて、かつ可愛すぎて、蒼井優との違いがよくわからない。 (のちに原作を読んだら、主人公の「オレ」の独白があまりにもすべて松山ケンイチの口調に思えて驚きました) 2009年 08月 15日
【ニューヨーク小倉孝保】「お名前は?」「ボブ・ディランだ」「何をしているの?」「ツアーに行くところだ」--。世界で最も有名な米シンガー・ソングライターの一人、ボブ・ディランさん(68)が先月、警官に職務質問され身分証の提示を求められていたことが米国で話題になっている。警官2人は20代。いずれもディランさんのことを知らなかったようだ。
AP通信によると、ディランさんは7月23日夕、米東部ニュージャージー州ロングブランチの低所得者の多い地区を歩いていたところ、警官に職務質問され、身分証の提示を求められた。警官は怪しい者ではないと判断し、ディランさんの目的地まで同行したが、最後までスーパースターだと気付かない様子だったという。この日、近くの野球場でディランさん、ウィリー・ネルソンさん(76)、ジョン・メレンキャンプさん(57)ら大物歌手3人の合同コンサートがあった。 毎日新聞 2009年8月15日 18時49分 2009年 08月 12日
原作:グスタフ・ハスフォード / 脚本,監督:スタンリー・キューブリック / 出演:リー・アーメイ / 1987年
★★★★★…めちゃくちゃおもしろかった 「前半素晴らしいと思ったけど後半はそうでもない」と感じました。前半だけで五つ星。これほど簡素なセットでこれほど単純な構成で説得力ある戦争映画が撮れるものだったのか、という驚きと感動。素晴らしい。 後半はもしかすると「ジャングルなしで説得力あるベトナム戦争映画が撮れるか」というコンセプトなのかも知れない。リアリティを感じさせるベトナム戦争映画だとは思ったけど、なんかピンと来なかった。前半だけで短く終わればいいのに。 2009年 08月 12日
原作:伊坂幸太郎 / 脚本,監督:中村義洋 / 出演:瑛太, 関めぐみ, 松田龍平, 大塚寧々 / 2007年
★★…………おもしろいところもありました はじめの1時間、本屋を襲って広辞苑を奪うとか、逆に自室の本が消失するとか、誰それがHIVに感染しているとか、2年前にペット連続殺傷事件があったとか、地味で意味ありげなエピソードが淡々と消化される。どれもが何かの伏線なのだろうとは思うものの、何の伏線かはわからないので思わせぶりなばかりで、面白くない。たぶん、伊坂幸太郎の原作を読んでる人にとっては面白いのだろう。実際、二度めに観たときは案外楽しめた。一度めはダメだったなあ。エピソードはショボいわ役者はショボいわ映像はショボいわで、ひたすら退屈。つまりこれは、原作を読んでる人のために作られた映画なのである。たぶん。 多くの固定ファンを持つ原作を映画化するときに、そのファン層を観客として想定し、そのファン層のイメージを裏切らないことを第一に気にするという、その気持ちはよくわかる。たぶん「無能の人」を撮ったときの竹中直人もそうだっただろうように。だからそれに文句を言うつもりはないけれど、とにかく私は原作を読んでないので、全110 分のうち、はじめの60分はひたすら退屈だった。 ただ、Amazonのレビューで、原作読んでないけど素晴らしい、と言ってる人も複数いるので、私の頭、あるいはセンスが悪いせいだったのかもしれない。それとも相性か。映画を観て 「前半素晴らしいと思ったけど後半はそうでもない」と感じた場合と、 「前半退屈だったけど後半は面白かった」と感じた場合、どっちに好印象を持つか、という。 私は完全に前半重視タイプのようだ。後半になるほどと思わせてもらっても、すでに腹を立てているので、素直に楽しめない。 2009年 08月 03日
祖父は私が中学のとき死んだ。長い闘病の後だったため、遺骨の量が少なかった。
火葬場で焼き上がった遺骨の量には、体格、年齢、病歴などによって個人差がある。日本のキリスト教徒は遺骨をどうするのか知らないが(キリスト教徒は焼かずに土葬するのか?)、多くの日本人遺族はそれを箸でつまんで骨壺に収める。入り切らない分はどうなるのだろうか。「メモリアルアートの大野屋」の「仏事Q&A」にはこういう記述がある。 Q:火葬場で見た光景で、壷に遺骨が入りきらないときに、職員の方がスリコギ棒のようなもので崩して押し込んでいました。これについての質問ですが、これは、ひとつの壷に入れなくてはならない決まり等があるのかどうか詳しく教えてください。 壷に入りきらない分は、火葬場が「処分」するらしい。厳密に杓子定規に考えれば、壷に入りきらない分も遺体であり、ゴミ扱いすれば死体遺棄罪に該当するはずだが、そこまでは追求せずに穏便に済ませているのだろう。法の運用上、壷に入ったぶんだけが「死体」とみなされ、入り切らなかった分は「死体ではない何か」とみなされる。そういうことのようだ。 狭い日本に核家族が増えていけば、墓地の需要は増すばかりとなる。その問題に対して「散骨」というのはよいアイデアに、いっしゅん思えるが、現実はなかなかむずかしいらしい。どこでもいいわけではない。住民の苦情などから、散骨を条例で規制する地方自治体も少なくない。規制する自治体が増えていく可能性もある。 いやそれでね、何が言いたいかというと、遺骨の量のことだ。「ものすごく小さい骨壺」を作ったらどうだろうか。それに入り切らないぶんは、火葬場で「処分」してもらう。入ったぶんだけを死体=遺体=遺骨とみなし、持って帰り、撒きたければ撒けばいい。もちろん散骨問題の根本解決にはならないが、量が大幅に減ることは解決の一助になるはずだ。また、撒かずに引き出しの奥にしまっておいてもいい。小さいから負担にならない。 ▼追記:「そういうことのようだ」というのは間違ってるようだ。 近代に至るまで、日本の葬送儀礼として火葬は決して主流ではなかった。しかし遺骨がコンパクトにまとまり持ち運びが可能になる・土葬のように数年単位で墓地の面倒を見る必要がない・墓地の土地面積が節約できるなどのメリットが徐々に浸透し、徐々に火葬が普及していった。高度経済成長期以降の人口の都市集中なども火葬の追い風となり、それ以降では火葬が主流になったといっても良い。東日本と西日本で違う、と。 MCプロデュース : 火葬の後で(工場長)2007年08月20日 2009年 08月 02日
監督:マット・リーヴス / 製作:J・J・エイブラムス, ブライアン・バーク /
出演:マイケル・スタール=デヴィッド, オデット・ユーストマン, T・J・ミラー / 2008年 ★★★★★★★★★★…めッッッッッッちゃくちゃおもしろかった 興奮しました。最高。「クローバーフィールド」がどういう映画か知らず、宣伝映像を見たことある程度で、それ以上は何も知らないけどなんとなく興味がある、という人は、以下の文章を読まず、AmazonのユーザレビューもWikipediaも読まず、何も知らずに観た方がいいですよ。読むと絶対に後悔しますよ。 はじめの18分ちょっとは、どうでもいいパーティシーン。一般的には不評のようだが、私はかなり楽しめました。撮ってるのがどうしようもないアホな男で、かつマリーナに惚れている、という設定が可笑しい。レザボアドッグスの冒頭の、マドンナやらチンポやらチップやらを巡ってえんえんと続くバカ議論シーンと遜色ないと思う。岸田劉生がいくらがんばってもレンブラントみたいな奥行き感は出せないように、なぜか日本人には出せない雰囲気。 18分過ぎからようやくニューヨークの街に異変が始まり、原因不明の怒濤の破壊とパニックになだれ込む。こちらになんの予備知識もなかったのが幸いして、なんだか凄いことになってるんだが原因も意図もいっさい不明、という「GANTZ」みたいな展開が凄い。5分間くらい。 事態が謎の巨大怪獣の襲来、とはっきりわかるのは、乱入した電気店のテレビのニュース映像によってで、31分過ぎあたり。そこから先が本格的に怪獣パニック編ということになるが、こちらの気分は怪獣登場以降は急速に醒めた。理由はよくわからないが、なーんだ怪獣映画だったのか、という感じ。子供の頃父親に連れていってもらって観た「宇宙大怪獣ギララ」とかを思い出してそれなりに楽しめたけど、怪獣映画にしては怪獣との戦いが、いまいち盛り上がらないんだよなあ。それにいくらなんでも「オーマイガッ」連発過ぎだろ。 怪獣の凶暴さなり、怪獣の悲しみなり、怪獣の襲撃の必然性なり、なんでもいいから何か掘り下げた方が盛り上がると思うんだが。「エイリアン」に感じるひしひしとした恐怖を100とすると、こっちは40くらい。まあ「ジュラシックパーク」よりはマシだったと思うが。「一般人がハンディカメラで撮った映像が後に発見された」という設定も、ホラー映画には合うんだろうけど、またパニック映画にも合うと思うけど、巨大怪獣を撮るには無理があるんじゃなかろうか。 もっとも、監督は「そんなこと言われたって予算がなかったんだからしょうがない」と言うだろう。ハンディカメラは「低予算で怪獣映画を撮るにはどうすればよいか」を考えた結果、苦肉の策の撮影手法ということらしい。 というわけなので、興奮最高潮だった時間はわずか5分間ということになるが、5分間でもいいじゃないか。その5分間、映画を観てこれほど興奮した経験は他にない。素晴らしい。 ・マット・リーヴス監督 インタビュー ・製作J.J.エイブラムス インタビュー ・マイケル・スタール=デヴィッド 、リジー・キャプラン インタビュー 2009年 07月 29日
原作:ローレン・ワイズバーガー / 監督:デビッド・フランケル / 出演:アン・ハサウェイ,メリル・ストリープ,スタンリー・トゥッチ / 2006年
★★★★……すごくおもしろかった 素晴らしい。プロが作ったプロの映画。観ていて残念に思う点が、ひとつもない。このカット無駄に長い、とか、この絵いまいち、とか、このシーンは必要なのか、とか、この音楽が耳障り、とか、そういうことを一度も思わせない(つまり西川美和の映画にはけっこう、そう感じる瞬間が多いんだな)。どうして日本ではこの手の、軽くて軽妙でゴージャスな映画はできないんだろう。軽くて軽妙でお洒落なCMとかならたくさんあるのに。軽くて軽妙で貧乏な感じの映画もたくさんあるのに。まあ日本にはメリル・ストリープ(1949年-)がいないからなあ・・・ 主役は常磐貴子か、深津絵里か、黒谷友香か、あるいは西山茉希か南明奈か、まあ可愛いければ誰でもいいとして、悪魔の編集長は日本人なら誰がやるんだろうか。八千草薫じゃ無理でしょう。野際陽子か。朝丘雪路か。大地真央か。あ、風吹ジュン(1952年-)か。余貴美子(1956年-)か。永島暎子(1955年-)か。風吹ジュンも余貴美子も永島暎子も尊敬すべき役者だが、それでもメリル・ストリープには及ばない気がする。ちなみに私がメリル・ストリープという人の偉大さを知ったのは「She-Devil」という映画からです(「She-Devil」でのメリル・ストリープはデヴィルではなく、デヴィルに翻弄される側)。 メリル・ストリープ演じる悪魔の編集長は全編を通し、一度として声を荒げない。悪魔の編集長は毎日毎日コートを着てくる。やっぱりお洒落というのはある程度寒くないとなあ、真夏はどんな格好するのかなあ、などと、考えました。
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